カテゴリー: M&A

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  • 医師・士業の家族の承継|資格を持たない子は親の診療所や事務所を継げるのか、家族に残せる選択肢を比べる

    医師・士業の家族の承継|資格を持たない子は親の診療所や事務所を継げるのか、家族に残せる選択肢を比べる

    医師や税理士などの親を持つ子が、その資格を持っていない場合、親の診療所や事務所をそのまま継ぐことはできません。診療や税務代理といった資格が必要な業務そのものは、資格者にしか担えないからです。

    しかし、それで家族の選択肢がなくなるわけではありません。結論としては、「事業を担う人」と「財産を持つ人」を分けて考えることで、道が開けます。事業は資格を持つ第三者に引き継ぎ、診療所や事務所の不動産は家族が持って貸す。医療法人や士業法人の出資・持分は、法人の仕組みに沿って整理する。あるいは、計画的に廃業する。この記事では、資格を持たない子がいる家族が比べたい選択肢と、判断の軸を整理します。

    なぜ「資格」が承継の壁になるのか

    まず、医師と士業それぞれで、資格がどのように求められているかを確認します。

    医師の場合、個人の診療所は、医師が開設するときは開設後に届け出れば足りますが、医師でない人が開設するには都道府県知事等の許可が必要です(医療法7条1項、8条)。医療法人では、理事長は原則として医師または歯科医師である理事から選ぶこととされ、医師等でない理事から選ぶには都道府県知事の認可が必要です(医療法46条の6第1項)。

    士業の場合、たとえば税理士法人の社員は税理士でなければなりません(税理士法48条の4第1項)。税理士が亡くなると登録が抹消され(同法26条1項2号)、税理士法人の社員であれば法人から脱退することになります(同法48条の17第1号)。また、個人の事務所が顧客と結ぶ顧問契約は、一般に委任の性質を持ち、委任は当事者の死亡によって終了します(民法653条1号)。資格者本人が亡くなれば、顧客との関係もそこで途切れるのが原則です。

    こうした事情から、医師・士業の事業は後継者を見つけにくい分野でもあります。帝国データバンクの2025年の調査では、業種中分類別の後継者不在率で「医療業」が59.0%、「専門サービス」が58.6%と、いずれも上位5業種に入っています(2025年11月公表)。

    家族が比べたい五つの選択肢

    資格を持たない子がいる家族の選択肢は、大きく次の五つに整理できます。

    選択肢事業を担う人家族に残るもの向いているケース主な注意点
    1. 第三者の資格者に引き継ぐ外部の医師・士業譲渡の対価地域に必要とされ、患者や顧客が多い引継ぎ先探しに時間がかかる。対価の税金
    2. 事業は譲り、不動産は家族が持って貸す外部の医師・士業不動産と賃料収入立地のよい自宅兼診療所・事務所を持つ賃料・期間の設計、相続税の特例の要件
    3. 医療法人・士業法人の出資や持分を整理する法人に残る資格者出資の対価や払戻し法人化しており、他の資格者がいる法人の類型・定款・税金で扱いが変わる
    4. 子や孫が資格を取るまでつなぐ一時的な院長・所長将来の承継の可能性子や孫が資格取得を目指しているつなぐ人との条件設定、長期化のリスク
    5. 計画的に廃業するなし残った資産引継ぎ先が見つからない、事業規模が小さい患者・顧客・職員への配慮、残る資産の整理

    ※AEGISが論点を整理するために作成した表です。実際には複数の選択肢を組み合わせることもあります。

    1. 第三者の資格者に引き継ぐ

    もっとも事業の価値を生かせるのが、外部の医師や士業に事業を引き継ぐ方法です。個人の診療所であれば、診療所の設備や患者、職員を引き継いでもらう形になり、引き継ぐ医師があらためて開設の手続を行います。具体的な手続や建物・土地の扱いは、関連記事「個人開業医の診療所を引き継ぐ方法」で解説しています。

    士業の事務所では、顧客との顧問契約が資格者本人との信頼関係に基づいているため、親が元気なうちに後継の資格者を顧客に紹介し、一定期間一緒に担当するなどの段階的な引継ぎが欠かせません。顧問契約は親の死亡で終了するのが原則のため、亡くなった後に引継ぎ先を探すのでは、顧客が離れてしまう可能性が高くなります。

    譲渡の対価を受け取る場合、譲渡する資産の種類によって課税関係が異なります。個人事業を第三者に譲るときの税金や手続は、関連記事「個人事業を第三者に譲る方法」で扱っています。

    2. 事業は譲り、不動産は家族が持って貸す

    自宅と一体になった診療所や、駅前の事務所ビルなど、立地のよい不動産を持っている場合は、事業は資格者に譲り、不動産は家族が持ったまま引継ぎ先に貸すという形が考えられます。家族には安定した賃料収入が残り、引継ぎ先にとっても、患者や顧客に知られた場所で事業を続けられる利点があります。

    このとき検討したいのが、相続税の小規模宅地等の特例との関係です。親が自ら診療所や事務所として使っていた土地を相続する場合、「特定事業用宅地等」として扱われるには、親族が親の事業を相続税の申告期限までに引き継ぎ、申告期限まで営んでいることなどが要件になります(国税庁タックスアンサーNo.4124)。資格を持たない子は事業を引き継げないため、この要件を満たすことは難しくなります。

    親の生前から第三者に貸していれば「貸付事業用宅地等」として検討の対象になりますが、相続開始前3年以内に新たに貸付けを始めた宅地等は、一定の場合を除いて対象外とされています(同)。どの時点で、誰に、どの条件で貸すかによって、相続税の扱いが変わりうるため、引継ぎの時期とあわせて試算しておくことが大切です。

    3. 医療法人・士業法人の出資や持分を整理する

    親が医療法人や士業法人を経営している場合は、法人の仕組みに沿った整理が必要です。

    医療法人では、法人の類型によって扱いが大きく異なります。出資持分のある医療法人であれば、出資持分は親の相続財産になり、相続した子が持分の払戻しを求めることも考えられます。払戻しが法人の資金繰りを圧迫すれば、医療の継続にも影響します。後継者に医師がいない場合、専門書では、外部から医師を招くための医療機関としての価値の向上や、理事長個人名義の資産の整理などが論点として挙げられています。出資持分の評価や持分なし医療法人への移行は、関連記事「医療法人の事業承継と出資持分の整理」で解説しています。

    士業法人では、資格を持たない子が社員の地位を引き継ぐことはできません。親が亡くなって法人から脱退すれば、持分は法人の定款や法律の定めに沿って精算されることになります。法人にほかの資格者の社員がいるかどうか、精算の資金を法人が用意できるかが、事業の継続にとって重要です。

    4. 子や孫が資格を取るまでつなぐ

    子や孫が医師や士業を目指して学んでいる場合は、外部の資格者に一定期間、院長や所長として事業を担ってもらい、将来の承継につなぐ方法もあります。ただし、つなぐ期間は想定より長くなりがちで、その間に事業の中心が外部の資格者に移っていくこともあります。つなぐ人の処遇、期間、将来の引継ぎ方を、あらかじめ書面で決めておくことが欠かせません。また、子や孫の進路を家族の期待で縛らない配慮も大切です。

    5. 計画的に廃業する

    引継ぎ先が見つからない場合や、事業の規模が小さい場合は、計画的な廃業も立派な選択肢です。患者には紹介先の医療機関を、顧客には後任の専門家を案内し、職員の再就職にも配慮しながら、時間をかけて事業を閉じます。廃業後に残る不動産は、売却や賃貸、相続などで家族の資産として生かすことを考えます。

    選択肢を比べるときの判断軸

    五つの選択肢を比べるとき、AEGISは次の四つの軸で考えることをおすすめしています。

    1. 地域・顧客への責任:患者や顧客、職員にとって、事業が続くことにどれだけの意味があるか
    2. 事業の価値が残る時間:資格者本人の力に依存する事業ほど、引継ぎが遅れるほど価値が下がる
    3. 家族に残す財産の形:対価(現金)、不動産と賃料、法人の持分のどれで残すのが家族に合っているか
    4. 相続のときの公平さと税金:子どもが複数いる場合の配分、相続税と納税資金の見通し

    とくに医師・士業の事業は、資格者本人の力や信頼に支えられているため、②の「時間」が他の事業以上に重要です。元気なうちに選択肢を比べ始めることが、家族に残せるものを大きくします。

    医師・士業の親が、今から家族と話しておきたいこと

    資格を持たない子がいる場合、親が一人で悩んだまま時間が過ぎてしまうことがよくあります。子の側も、「継げなくて申し訳ない」と感じていたり、親の事業や財産について聞きにくかったりします。家族で次のような点を話しておくと、選択肢を比べる土台ができます。

    • 親はいつ頃まで現役を続けたいか、引退後はどう暮らしたいか
    • 子は将来、事業や不動産とどのように関わりたいか(関わりたくない、も含めて)
    • 診療所や事務所の不動産を、家族として残したいか
    • 患者・顧客・職員に対して、親が果たしたい責任は何か

    医師・士業として独立するときの形の選び方は、関連記事「医師・士業が独立開業するときの形の選び方」でも扱っています。開業の段階から承継や廃業の出口を見通しておくことの大切さは、承継を考える段階でも同じです。

    AEGISの視点

    資格を持たない子がいる医師・士業の家族は、「継がせられない」ことに意識が向きがちです。しかし、AEGISは、資格が必要なのは「業務」であって、「家族が事業とともに築いてきた財産や信頼」まで途切れるわけではないと考えています。

    事業の担い手と財産の持ち手を分ければ、事業は地域に必要とされる形で資格者に引き継ぎ、不動産や対価、法人の持分は家族の資産として次の世代に渡すことができます。その際には、事業の譲渡、不動産の所有と賃貸、相続税の特例、家族の間の配分を一体で設計する必要があります。どれか一つだけを先に決めると、他の選択肢を狭めてしまうことがあるからです。

    もう一つ大切なのは、子が親の事業を継がないことを、家族の失敗として捉えないことです。親が長年築いた事業を、地域のために次の資格者へつなぎ、家族には別の形で財産を残す。その道筋を家族で共有できれば、親にとっても子にとっても納得のいく承継になります。事業・不動産・相続を一体で考えるAEGISの考え方は、アイジス税理士法人の専門領域でも紹介しています。

    親族以外への承継が広がっている動向は関連記事「『脱ファミリー』が進む事業承継」で、事業承継の全体像は「事業承継は何から始めるべきか」で解説しています。

    まとめ

    • 診療や税務代理など資格が必要な業務は、資格を持たない子が担うことはできません。診療所の開設、医療法人の理事長、士業法人の社員には、法律で資格が求められています。
    • 「事業を担う人」と「財産を持つ人」を分けることで、第三者の資格者への承継、不動産を家族が持って貸す形、法人の出資や持分の整理、子や孫が資格を取るまでつなぐ形、計画的な廃業といった選択肢が見えてきます。
    • 不動産を家族が持つ場合は、小規模宅地等の特例の要件(事業の引継ぎ、貸付けの開始時期など)によって相続税の扱いが変わりうるため、時期とあわせて試算します。
    • 資格者本人の力に依存する事業ほど、引継ぎが遅れるほど価値が下がりやすく、元気なうちに比べ始めることが大切です。

    よくある質問

    Q. 医師でない子が、親の診療所の開設者になることはできますか?

    医師でない人が診療所を開設するには、都道府県知事等の許可が必要とされています。実務上は、医師である第三者に診療所を引き継いでもらう、または医療法人の形で医師を管理者として迎えるなどの方法が検討されます。具体的な可否は所管の窓口で確認が必要です。

    Q. 医療法人の理事長は、医師でなければなりませんか?

    医療法では、理事長は原則として医師または歯科医師である理事から選出するとされています。ただし、都道府県知事の認可を受けた場合は、医師等でない理事から選出することもできます。認可の基準は個別に確認が必要です。

    Q. 税理士の親が亡くなった場合、顧問先はどうなりますか?

    税理士の登録は死亡により抹消され、顧問契約は一般に委任の性質を持つため、当事者の死亡で終了するのが原則です。顧問先は別の税理士を探すことになるため、親が元気なうちに後継の税理士を顧問先に紹介し、段階的に引き継いでおくことが大切です。

    Q. 診療所の土地を家族が相続した場合、小規模宅地等の特例は使えますか?

    親が自ら診療所として使っていた土地は、親族が事業を引き継ぎ申告期限まで営むことなどが特定事業用宅地等の要件になるため、資格を持たない子が相続する場合は適用が難しくなります。生前から第三者に貸していた場合は貸付事業用宅地等として検討の対象になりますが、貸付けの開始時期などの要件があるため、個別の確認が必要です。

    Q. 子が将来、医師になるかもしれない場合はどうすればよいですか?

    外部の医師に一定期間院長を務めてもらい、将来の承継につなぐ方法があります。その場合は、院長の処遇や期間、将来の引継ぎ方を事前に書面で決めておくことが重要です。子の進路が変わる可能性も踏まえ、第三者への承継など別の選択肢も並行して検討しておくと安心です。

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    • 個人事業の継続と承継:個人事業を長く続け、次世代へ引き継ぐための準備として、事業資金・民事信託(いわゆる家族信託)・遺言・契約・金融機関対応を確認します。
    • M&A:会社売却の方針・取引条件・税引後の受取額・売却後の資産管理を検討します。
    • 相続と資産承継:不動産・自社株・金融資産・借入・ご家族の意向を確認し、納税資金・財産配分・遺言・承継の実行を一体で検討します。

    参考資料・出典

    公的資料・一次情報

    書籍

    • 『Q&A各種法人の事業承継の実務 ―社団・財団法人、NPO法人、医療法人、社会福祉法人、学校法人、宗教法人―』東京弁護士会親和全期会 編、新日本法規出版(2020年)、P.89-111、P.124

    その他参考資料

    • 株式会社帝国データバンク「全国『後継者不在率』動向調査(2025年)」(2025年11月21日発表)
      確認日:2026-10-17
  • 中小企業の譲渡価格はどう決まるか|純資産・年買法・DCF・類似会社比較の考え方と、相続税評価との違い

    中小企業の譲渡価格はどう決まるか|純資産・年買法・DCF・類似会社比較の考え方と、相続税評価との違い

    会社を売るときの価格は、一つの計算式で自動的に決まるものではありません。

    結論から言えば、中小企業のM&Aでは、①いくつかの評価方法で「価格の目安となる幅」をつくり、②買い手の調査(デュー・ディリジェンス)で見つかった事実を反映し、③交渉で当事者が合意した金額が譲渡価格になります。中小企業庁の「中小M&Aガイドライン(第3版)」も、算出された金額がそのまま譲渡額になるわけではなく、最終的に当事者が合意した金額が譲渡額になると説明しています。

    この記事では、中小M&Aで使われる主な評価方法の考え方と、相続税の評価との違い、価格交渉で見られるポイントを整理します。

    価格の考え方は3つのアプローチに分かれる

    会社の価値の測り方は、大きく3つのアプローチに分けられます。

    アプローチ何に着目するか主な方法中小M&Aでの使われ方
    コスト(ネットアセット)アプローチ貸借対照表の純資産簿価純資産法、時価純資産法よく使われる。ガイドラインは時価純資産法で算定されるケースが多いとしている
    マーケットアプローチ似た上場会社の株価や倍率類似会社比較法(マルチプル法)EV/EBITDA倍率法が多く用いられる
    インカムアプローチ将来生み出すキャッシュフローDCF法、収益還元法事業計画が整っている会社で使われる

    どの方法にも長所と短所があり、評価する人の立場(売り手か買い手か)によって重視する方法も変わります。実務では複数の方法で試算し、幅をもって考えるのが一般的です。

    純資産法:会社の「いまの財産」から考える

    簿価純資産法

    貸借対照表の純資産の額をそのまま株式の価値とみる方法です。分かりやすく、費用もかかりません。一方、土地の含み益や、帳簿に載っていない資産・負債がある場合は、実態を表さないことがあります。

    時価純資産法(修正簿価純資産法)

    資産と負債を時価で評価し直し、帳簿に載っていない資産・負債も加味して純資産を計算する方法です。ガイドラインは、簿外の資産・負債の例として保険の解約返戻金や退職給付債務を挙げています。中小M&Aでは、全項目ではなく、不動産や有価証券など影響の大きい項目だけを時価にする「修正簿価純資産法」もよく使われます。

    時価に直すときによく調整される項目は、次のとおりです。

    • 土地・建物:帳簿価額と時価の差(含み益・含み損)
    • 有価証券・保険積立金:時価や解約返戻金の額
    • 在庫・売掛金:実在性と回収可能性。滞留在庫や回収見込みの低い債権の減額
    • 退職給付債務:従業員が退職したときに会社が負担する見込額
    • 簿外の債務:未払いの残業代、保証債務など

    年買法:純資産に「数年分の利益」を上乗せする

    中小M&Aでよく使われるのが、時価純資産(または簿価純資産)に数年分の利益を加える方法で、「年買法」「年倍法」などと呼ばれます。上乗せ部分は、会社の収益力に対する対価、いわゆる「のれん(営業権)」にあたります。

    ガイドラインの参考資料は、加算する利益の種類(税引後利益や経常利益など)と年数(通常1年〜3年)は事例ごとに異なり、交渉で決まるケースが多いとしています。

    年買法で注意したい点は二つあります。

    • 何年分を上乗せするか:利益が今後も続く根拠(取引先の安定性、技術や許認可、人材)が強いほど、年数は長く評価されやすくなります。逆に、オーナー個人の人脈に依存している利益は、承継後に続く保証がないため短く見られがちです
    • 利益の「正常化」:決算書の利益をそのまま使うのではなく、オーナーの役員報酬や私的な経費、オーナー個人の不動産に支払っている賃料など、M&A後に変わる項目を調整した「実力の利益(正常収益力)」で考えます

    また、年買法は黒字であれば必ずのれんが乗る計算になりますが、借入金が多い会社では、将来のキャッシュフローから見た価値が時価純資産を下回ることもあります。年買法の結果だけで「この金額で売れる」と考えないことが大切です。

    類似会社比較法(マルチプル法):上場会社の倍率を借りる

    似た事業を行う上場会社の株価と財務指標から倍率を求め、対象会社に当てはめる方法です。ガイドラインは、中小M&AではEV/EBITDA倍率法が多く用いられるとし、次の算式を示しています。

    株式価値 = EBITDA × EV/EBITDA倍率 - 純有利子負債(有利子負債-現預金)

    EBITDAは簡易的に「営業利益+減価償却費」で計算されることが多く、償却前利益とも呼ばれます。ガイドラインは、中小企業の株式は上場株式に比べて流動性が低いことを考慮し、30%程度割り引くケースもあるとしています。

    比較的客観性の高い方法ですが、規模や事業内容が大きく異なる上場会社を比較対象にすると、結果がゆがみます。

    DCF法:将来のキャッシュフローから考える

    事業計画をもとに将来のキャッシュフローを予測し、リスクを反映した割引率で現在の価値に引き直す方法です。会社の将来性を直接反映できる一方、予測や割引率の置き方で結果が大きく変わります。事業計画が整っていない中小企業では、過去の実績から簡便に計算する方法がとられることもあります。

    「企業価値」と「株式価値」は違う

    価格の話で混同されやすいのが、企業価値と株式価値(株主価値)の違いです。

    • 企業価値(EV):事業が生み出す価値に、余剰資金などの事業外資産を加えたもの
    • 株式価値:企業価値から、借入金などの有利子負債を差し引いたもの

    株式を譲渡する場合、売り手のオーナーが受け取るのは株式価値です。同じ事業価値でも、借入金が多い会社は株式価値が小さくなります。仲介会社の報酬が何を基準に計算されるかも、この違いと関係します。

    数字で見る試算のイメージ(例示)

    次の数字は、考え方を示すための仮のものです。

    項目金額
    簿価純資産8,000万円
    土地の含み益・保険の解約返戻金+3,500万円
    退職給付債務・滞留在庫の減額-1,500万円
    時価純資産1億円
    正常収益力(営業利益を役員報酬等で調整後)2,500万円
    年買法(時価純資産+正常収益力×2年分)1億5,000万円
    EBITDA(正常収益力+減価償却費500万円)3,000万円
    企業価値(EBITDA×倍率5倍と仮定)1億5,000万円
    純有利子負債(借入6,000万円-現預金4,000万円)2,000万円
    マルチプル法による株式価値1億3,000万円

    この例では、目安の幅はおおむね1億円〜1億5,000万円です。ここから、買い手の調査結果や条件交渉によって最終的な価格が決まります。

    相続税評価とは目的も方法も違う

    自社株の価値というと、相続税や贈与税の計算に使う評価額を思い浮かべる方も多いでしょう。しかし、相続税評価はM&Aの価格とは目的も方法も異なります。

    比較の軸M&Aの譲渡価格相続税評価(財産評価基本通達)
    目的当事者が売買する価格を決める課税の公平のため、画一的に評価する
    決め方評価方法で目安をつくり、交渉で合意定められた方式で計算
    主な方法時価純資産・年買法・マルチプル・DCF類似業種比準方式・純資産価額方式(会社規模で使い分け)、少数株主は配当還元方式
    将来の収益のれんとして評価に反映原則として直接は反映しない
    純資産の計算時価で評価し直す相続税評価額で評価し、評価差額に対する法人税額等相当額(38%)を控除

    国税庁のタックスアンサー(No.4638)によると、取引相場のない株式は、株主の区分と会社の規模に応じて原則的評価方式または配当還元方式で評価します。相続税評価の方法は、関連記事「非上場株式の評価方法をどう検討するか」で解説しています。

    なお、取引相場のない株式の相続税評価については、国税庁の「取引相場のない株式の評価に関する有識者会議」で2026年4月から評価方法の在り方が議論されています。2026年10月時点では議論の段階で、決定事項ではありません。議論の方向性は、関連記事「非上場株式の評価見直しの議論で何が変わりうるか」で整理しています。

    価格交渉で買い手が見るポイント

    買い手が見る点価格への影響の例
    正常収益力オーナー関連の経費を調整した後の利益が、評価の土台になる
    簿外債務・偶発債務未払残業代、税務上の問題、訴訟の可能性は減額や補償条項につながる
    オーナー依存度取引先や技術がオーナー個人に結びついていると、のれんが低く見られやすい
    取引先の集中売上が特定の取引先に偏っていると、リスクとして評価される
    株主の整理名義株や連絡のとれない株主がいると、取引の前提が崩れる
    事業用不動産オーナー個人所有の本社・工場をどう扱うかで価格と条件が変わる
    経営者保証・借入保証の解除や借入の引継ぎ条件が、実質的な手取りを左右する

    価格は、支払い方の条件とも一体です。役員退職金との組み合わせ、分割払い、一定の業績達成で追加の対価を払う条項(アーンアウト)、表明保証の範囲などによって、同じ「価格」でも売り手の手取りとリスクは大きく変わります。株式譲渡と事業譲渡のどちらを選ぶかでも、受け取る人と税金が変わります。取引形態の違いは、関連記事「株式譲渡と事業譲渡の比較ポイント」で解説しています。

    実務上注意したいポイント

    • 評価書の数字は「交渉の出発点」:仲介会社などが示す評価額は目安です。ガイドラインは、仲介者は確定的なバリュエーションは行えず、必要に応じて士業等専門家の意見を求めることができる旨の説明を求めています
    • 手取りで考える:個人株主が株式を譲渡した場合、譲渡益には株式の譲渡所得として所得税・住民税がかかります。仲介手数料などの費用も差し引いて、手元に残る金額で比べます。手数料の仕組みは関連記事「M&A仲介を使う前に確認したいこと」で解説しています

    • 準備で価格は変わる:正常収益力の説明資料、株主の整理、不動産の所有関係の整理は、売却の数年前から進めておくほど価格と条件に反映されやすくなります

    AEGISの視点

    AEGISは、譲渡価格を「会社の値段」であると同時に、オーナー家の資産を組み替える価格だと考えています。売却で受け取る金額は、税金と費用を差し引いた後、オーナー家の生活、次の世代への承継、場合によっては社会への還元に使われます。

    そのため、価格の検討は「いくらで売れるか」だけでなく、「株式・不動産・退職金をどう組み合わせると、手取りとリスクのバランスがよいか」まで広げて考えることが大切です。また、相続税評価とM&Aの価格は別物ですが、売却をせずに親族へ承継する場合との比較では、両方を並べてみることで判断の材料が増えます。

    会社売却の準備をいつから始めるかの全体像は、関連記事「会社売却を考えるなら何年前から準備するか」で整理しています。

    自社株の評価や資本設計の考え方は、アイジス税理士法人の専門領域でも紹介しています。

    まとめ

    • 中小企業の譲渡価格は、評価方法で目安の幅をつくり、調査と交渉を経て当事者が合意した金額で決まります。
    • 中小M&Aでは、簿価純資産法・時価純資産法、純資産に数年分の利益を加える方法、EV/EBITDA倍率法がよく使われます。
    • 株式の売り手が受け取るのは、企業価値から有利子負債を差し引いた株式価値です。
    • 相続税評価は課税のための画一的な評価で、M&Aの価格とは目的も方法も異なります。
    • 価格は支払い方や条件と一体で、手取りとリスクで比べることが大切です。

    よくある質問

    Q. 会社の売却価格は、純資産の額が下限になりますか?

    必ずしもそうではありません。時価純資産が売り手の希望の出発点になることは多いものの、将来の収益力が低い会社や借入金が多い会社では、買い手が純資産を下回る価格を提示することもあります。

    Q. 「利益の何年分」は、何年が一般的ですか?

    中小M&Aガイドラインの参考資料は、加算する利益の年数は通常1年〜3年で、事例ごとに異なり交渉で決まることが多いとしています。利益の持続性や、オーナーへの依存度によって評価は変わります。

    Q. 赤字の会社でも値段はつきますか?

    つく場合があります。時価純資産に価値がある場合や、買い手が自社の事業と組み合わせることで収益が見込める場合です。ガイドラインも、債務超過だからといって廃業しか選択肢がないとは限らないとしています。

    Q. 相続税評価額で売れば、税務上の問題はありませんか?

    M&Aの価格と相続税評価は目的が違います。第三者との取引であれば、当事者が合意した価格が基本になります。一方、親族や役員、オーナーが支配する会社との取引では、税務上の時価との差によって別の課税が生じることがあるため、個別の確認が必要です。

    Q. 価格を上げるために、売却前にできることはありますか?

    正常収益力を説明できる資料を整えること、株主や事業用不動産の所有関係を整理すること、オーナー個人に依存している取引や業務を組織に移すことなどが挙げられます。いずれも時間がかかるため、売却を考え始めた段階から取り組むことが望まれます。

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    • 自社株評価と資本設計:非上場株式の評価と株主構成を確認し、承継・売買・寄附などの目的に合う資本設計を検討します。

    参考資料・出典

    公的資料・一次情報

    • 中小企業庁「中小M&Aガイドライン(第3版)」(令和6年8月)および参考資料2「中小M&Aの譲渡額の算定方法」
      確認日:2026-10-10
    • 国税庁 タックスアンサー No.4638「取引相場のない株式の評価」(令和8年4月1日現在法令等)
      https://www.nta.go.jp/taxes/shiraberu/taxanswer/hyoka/4638.htm
      確認日:2026-10-10
    • 国税庁「取引相場のない株式の評価に関する有識者会議」資料(第1回:2026年4月20日、第6回)
      確認日:2026-10-10

    書籍

    • 『中小企業M&AのFA業務マニュアル』渡部潔著、中央経済社、2025年、P.16-26
    • 『企業買収の実務プロセス』木俣貴光著、中央経済社、2010年(2012年第9刷)、P.79-111
  • 飲食店や小売店を家族以外に引き継ぐ|営業許可・店舗の賃貸借・設備とのれん・常連客とスタッフの引継ぎ

    飲食店や小売店を家族以外に引き継ぐ|営業許可・店舗の賃貸借・設備とのれん・常連客とスタッフの引継ぎ

    個人で営む飲食店や小売店を家族以外に引き継ぐときは、「店」という一つのものを渡すのではなく、許可・店舗の賃借・設備・人・お客様との関係を、一つずつ新しい店主へ移していく作業になります。

    結論から言えば、飲食店の営業許可は、現行の食品衛生法では、営業の譲渡によって譲り受けた人が営業者の地位を承継し、届け出る仕組みがあります。ただし、店舗の改装や移転を伴えば改めて許可が必要になり、酒類の販売など別の許可・届出は制度ごとに扱いが違います。実務で最も時間がかかりやすいのは、店舗を借りている場合の貸主の承諾と、敷金・保証金の精算です。

    この記事では、店舗業ならではの論点を、引き継ぐ順番に沿って整理します。

    店舗業の「引き継ぎ」が難しい理由

    東京商工リサーチの「2025年『休廃業・解散企業』動向調査」(2026年1月公表)によると、2025年の休廃業・解散企業は6万7,210件で過去最多でした。産業別では、飲食業などを含むサービス業他が2万1,961件、小売業が7,903件と、店舗型の業種が大きな割合を占めます。休廃業企業の代表者は60代以上が90.6%に達し、直前期の決算が判明した企業の52.8%は黒字でした。

    黒字でも閉じる店が多い背景には、個人店ならではの事情があります。

    • 店主の腕と人柄が価値の中心:味や品ぞろえ、接客が店主個人に結びついている
    • 法人格がない:会社なら株式を渡せば契約や許可が会社に残りますが、個人事業では契約も許可も店主個人のものです
    • 店舗が借り物:店舗を借りている場合、借主の立場を移すには貸主の同意が要ります

    中小企業庁の「事業承継ガイドライン(第3版)」も、個人事業主の承継では「開業届」「廃業届」を出すだけでは足りず、契約関係と所有関係を引き継ぐことが欠かせないとしています。また、法人格が続く会社と違い、事業に必要な許認可を後継者が取り直したり、取引先との契約を引き継いだりする必要がある点を指摘しています。

    誰に、どの方法で引き継ぐか

    引き継ぐ相手は、主に次の3つに分かれます。

    • 従業員:店の味や仕事を知っており、常連客にもなじみがある。一方で、譲受代金や運転資金の準備が課題になりやすい
    • 取引先・同業者:仕入先や近隣の同業者が、支店や新業態として引き継ぐ
    • 独立・創業を目指す人:事業承継・引継ぎ支援センターの「後継者人材バンク」や、日本政策金融公庫の「事業承継マッチング支援」は、店を譲り受けて創業したい人とのマッチングも対象にしています

    方法は、個人事業であれば事業譲渡(営業の譲渡)が中心です。中小企業庁の「中小M&Aガイドライン(第3版)」も、個人事業主のM&Aでは事業譲渡の手法を用いるのが通常だとしています。店を法人で営んでいる場合は、会社の株式を譲る方法も選べます。

    個人事業を第三者に譲るときの全体の流れと税金は、関連記事「個人事業を第三者に譲る方法」で解説しています。

    引き継ぐものの一覧

    次の表は、AEGISが店舗業の引継ぎ対象と確認先を整理したものです。

    引き継ぐもの主な確認点相手・窓口
    飲食店などの営業許可営業者の地位の承継と届出、施設の変更の有無保健所
    その他の許可・届出酒類の販売、深夜の酒類提供、たばこの販売などは制度ごとに扱いが異なる所管の官公署
    店舗の賃貸借貸主の承諾、契約の引継ぎか結び直しか、賃料・期間の見直し貸主・管理会社
    敷金・保証金返還して新たに差し入れるか、引き継ぐか。償却や原状回復の取決め貸主
    内装・厨房設備・什器所有者(店主か貸主か、リースか)、状態と残りの使用期間店主・リース会社
    在庫・仕入先引継ぎ時点の棚卸し、仕入条件の継続仕入先
    屋号・レシピ・ノウハウ使ってよい範囲、引継ぎ期間中の指導新旧店主の合意
    スタッフ新しい店主との雇用契約、労働条件の説明スタッフ一人ひとり
    常連客・予約・会員案内の時期と方法、個人情報の扱い新旧店主の合意
    借入・保証引き継ぐか、店主が返済するか、保証の扱い金融機関

    営業許可:譲渡でも「地位の承継」ができる

    食品衛生法では、飲食店などの営業許可は、営業者が都道府県知事(保健所を設置する市などを含む)の許可を受けるもので、許可は営業の施設が基準に合うかどうかで判断されます(食品衛生法55条)。

    許可を受けた営業者が営業を譲渡した場合や、相続・合併・分割があった場合は、営業を譲り受けた人などが許可営業者の地位を承継します(同法56条1項)。承継した人は、承継の事実を証明する書面を添えて、遅滞なく届け出る必要があります(同条2項)。

    つまり、同じ施設で同じ営業を続けるのであれば、譲り受けた人が一から許可を取り直すのではなく、地位の承継の届出で引き継げる仕組みがあります。ただし、次の点には注意が必要です。

    • 施設を変える場合:改装で施設の構造が変わる場合や、店舗を移転する場合は、新たな許可や変更の手続が必要になることがあります
    • 業種・営業の内容が変わる場合:許可の種類が異なれば、承継では対応できません
    • 他の許可・届出:酒類の販売免許や深夜に酒類を提供する飲食店の届出などは、食品衛生法とは別の制度です。承継の可否と手続は、それぞれの所管に確認します
    • 個人の開業・廃業の届出:新しい店主は開業の届出、元の店主は廃業の届出など、税務上の手続も別に必要です

    具体的な書類や運用は自治体によって異なるため、譲渡日を決める前に保健所に相談しておきましょう。

    店舗の賃貸借:貸主の承諾が出発点

    店舗を借りている場合、借主の立場(賃借権)を他人に譲ったり、店舗を又貸ししたりするには、貸主の承諾が必要です(民法612条1項)。承諾なく第三者に使わせると、貸主は契約を解除できます(同条2項)。

    貸主の対応は、大きく二つに分かれます。

    • 契約を引き継ぐ:借主の地位の移転を認め、敷金もそのまま引き継ぐ
    • 契約を結び直す:元の契約を終了し、新しい店主と条件を見直して新たに契約する

    民法では、賃借人が適法に賃借権を譲り渡したときは、貸主は敷金から未払いの賃料などを差し引いた残額を返還しなければならないとされています(民法622条の2第1項2号)。実務では、敷金を一度返還して新たに差し入れる形と、当事者の合意で引き継ぐ形があり、どちらになるかで新旧店主の間の精算額が変わります。保証金に償却の特約がある場合や、退去時の原状回復の範囲も、あわせて確認しておきます。

    内装や厨房設備をそのまま使う、いわゆる「居抜き」の引継ぎでは、設備の所有者が誰か(店主か、貸主か、リース会社か)を整理することが欠かせません。リースの設備は、リース会社との契約の扱いを別に確認します。

    設備とのれんの値付け

    引継ぎの対価は、主に「設備・什器」「在庫」「のれん(店の評判や顧客との関係などの見えない価値)」の合計として考えます。

    • 設備・什器:帳簿上の価額ではなく、中古市場での価格や専門業者の査定を参考にすると、当事者の納得を得やすくなります
    • 在庫:引継ぎ日に棚卸しをして、使えるものだけを対象にします
    • のれん:個人店では、利益の源泉が店主個人にあるほど、店主が抜けた後も同じ利益が続くかは不確かです。引継ぎ期間を設けて店主が一緒に店に立つ、レシピや仕入先を文書で残すなど、のれんが新しい店主に移る仕組みがあるかどうかで評価が変わります

    対価の内訳は税金にも影響します。個人の事業譲渡では、譲る資産の種類によって所得の区分が分かれ、消費税も課税対象の資産と非課税の資産を区分して計算します。内訳は契約書に明記しておきましょう。

    常連客とスタッフの引継ぎ

    店の価値の多くは、常連客とスタッフに宿っています。

    • スタッフ:事業譲渡では雇用契約は自動的には移らず、一人ひとりが新しい店主と雇用契約を結びます。給与や勤務時間などの条件を早めに示し、不安を取り除くことが、引継ぎの成否を分けます
    • 常連客:店主の交代をいつ、どう伝えるかを新旧店主で決めておきます。予約台帳や会員情報など個人情報を引き継ぐ場合は、取扱いに注意が必要です
    • 引継ぎ期間:数か月程度、元の店主が新しい店主と並んで店に立つ期間を設けると、味や接客、仕入れのノウハウが移りやすくなります

    屋号を引き続き使う場合も注意が必要です。商法では、営業を譲り受けた人が譲渡人の商号を続けて使うと、譲渡人の営業で生じた債務を弁済する責任を負うとされています(商法17条1項)。譲受人が責任を負わない旨を遅滞なく登記するか、第三者に通知した場合は、この責任を免れることができます(同条2項)。

    引継ぎのスケジュール

    時期の目安やること
    1年前店の収支と資産・借入を一覧にする。引き継ぐ相手の候補を考え、支援窓口に相談する
    6か月前相手と基本条件を決める。貸主・保健所・金融機関に事前相談する
    3か月前譲渡契約、賃貸借の承諾・契約の手続。スタッフへの説明と雇用条件の提示
    引継ぎ日棚卸し、鍵・設備の引渡し、営業者の地位の承継の届出
    引継ぎ後並行営業の期間、元店主の廃業手続と確定申告

    店をたたむ場合の手続と比べたい方は、関連記事「個人事業をたたむときの手続と残った資産」も参考にしてください。

    実務上注意したいポイント

    • 貸主への相談は早めに:貸主の承諾が得られないと、引継ぎ自体が成り立たないことがあります
    • リースと保証の確認:厨房機器のリースや、店主個人が保証している借入は、引継ぎの条件に直結します
    • 譲受側の資金計画:従業員や創業者が引き継ぐ場合、譲受代金と当面の運転資金の調達計画を一緒に確認します。譲り受けて独立する側の視点は、関連記事「後継者不在の会社を引き継いで起業する方法」で解説しています

    AEGISの視点

    個人店の価値は、「場所」「人」「仕組み」の掛け算だとAEGISは考えています。場所は賃貸借や店舗の不動産、人は店主とスタッフ、仕組みはレシピや仕入れ、常連客との関係です。家族以外に引き継ぐときに失敗しやすいのは、このうち「人」を店主一人に頼ったまま、「場所」と「仕組み」を移す準備が遅れる場合です。

    もう一つ大切なのは、店主自身のこれからです。店舗兼住宅を所有している場合は、店舗部分を売るのか貸すのか、引退後の収入をどう確保するのか、そしてその不動産を将来どう相続するのかを、店の引継ぎと一緒に考える必要があります。店の引継ぎは、店主の家計と資産の設計の一部でもあります。事業承継の全体像は、関連記事「事業承継は何から始めるべきか」で解説しています。

    まとめ

    • 個人店の引継ぎは、許可・賃借・設備・人・顧客の関係を一つずつ移す作業です。
    • 飲食店の営業許可は、営業の譲渡でも譲受人が営業者の地位を承継し、届け出る仕組みがあります。施設の変更や他の許可は別に確認が必要です。
    • 店舗を借りている場合は、貸主の承諾が出発点です。敷金・保証金の精算方法も早めに決めます。
    • のれんの評価は、店主が抜けても価値が残る仕組みがあるかどうかで変わります。
    • スタッフは個別に新しい店主と雇用契約を結びます。屋号を続けて使う場合は、商法上の責任にも注意します。

    よくある質問

    Q. 飲食店を譲り受けた人は、営業許可を取り直す必要がありますか?

    現行の食品衛生法では、営業の譲渡があった場合、譲り受けた人が許可営業者の地位を承継し、承継を証明する書面を添えて遅滞なく届け出る仕組みがあります。ただし、施設の改装や移転を伴う場合は新たな手続が必要になることがあるため、事前に保健所に確認してください。

    Q. 貸主が店舗の譲渡を認めてくれない場合はどうなりますか?

    借主の立場を譲るには貸主の承諾が必要で、承諾なく第三者に使わせると契約を解除されるおそれがあります。条件の見直しを含めて貸主と話し合うか、別の店舗で営業する、設備だけを譲るなど、引継ぎの形を変えることを検討します。

    Q. 敷金は新しい店主に引き継がれますか?

    当事者の合意によります。民法上は、適法に賃借権が譲渡されたときに貸主は敷金の残額を返還するとされており、実務では一度返還して新たに差し入れる形と、引き継ぐ形があります。どちらにするかで新旧店主の精算額が変わるため、契約書に明記します。

    Q. スタッフはそのまま働き続けられますか?

    事業譲渡では雇用契約が自動的に移らないため、スタッフ一人ひとりが新しい店主と雇用契約を結びます。条件を早めに示し、本人の同意を得ることが必要です。

    Q. 店の名前(屋号)はそのまま使ってもよいですか?

    当事者が合意すれば使えますが、商法では、譲り受けた人が商号を続けて使うと、譲渡人の営業で生じた債務を弁済する責任を負う場合があります。責任を負わない旨の登記や取引先への通知で、この責任を免れる方法があります。

    関連するAEGISのソリューション

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    • 個人事業の継続と承継:個人事業を長く続け、次の世代へ引き継ぐための事業資金・遺言・契約・金融機関対応などを確認します。
    • M&A:会社売却の方針、取引条件、税引後の受取額、売却後の資産管理を検討します。

    参考資料・出典

    公的資料・一次情報

    書籍

    • 『中小企業M&AのFA業務マニュアル』渡部潔著、中央経済社、2025年、P.192-199

    その他参考資料

    • 東京商工リサーチ「過去最多の6.72万件、赤字企業率は47.2% 代表者60代以上の退出が加速 ~2025年『休廃業・解散企業』動向調査~」(TSRデータインサイト、2026年1月9日)
      https://www.tsr-net.co.jp/data/detail/1202284_1527.html
      確認日:2026-10-10
  • 介護事業所の承継と休廃業|事業譲渡・株式譲渡・廃業を、指定・職員・利用者・施設の不動産から比べる

    介護事業所の承継と休廃業|事業譲渡・株式譲渡・廃業を、指定・職員・利用者・施設の不動産から比べる

    介護事業を続けられなくなったときの選択肢は、大きく分けて「会社ごと引き継ぐ(株式譲渡)」「事業所単位で引き継ぐ(事業譲渡など)」「休止・廃止する」の3つです。

    介護事業の承継がほかの業種と違うのは、事業が介護保険の指定の上に成り立ち、人員基準を満たす職員と、日々サービスを利用している方の生活が結びついている点です。廃業は「店を閉める」ことでは終わらず、利用者が別の事業者へ移れるよう調整する責任も伴います。

    そのため結論から言えば、介護事業では「続けるか、やめるか」を決める前に、引き継げる可能性を早めに確かめておくことが、利用者・職員・経営者自身にとって最も選択肢の多い進め方です。この記事では、指定・職員・利用者・施設の不動産という4つの軸から、承継と休廃業を比べます。

    介護事業者の休廃業はなぜ増えているのか

    東京商工リサーチの「2025年『介護事業』休廃業・解散動向調査」(2026年1月公表)によると、2025年の介護事業者(老人福祉・介護事業)の休廃業・解散は653件で、4年連続で過去最多を更新しました。内訳は訪問介護が465件と突出し、通所・短期入所が95件、有料老人ホームが23件と続きます。同じ年の倒産も176件と過去最多でした。

    同調査は、背景として慢性的な人手不足、他産業に比べた処遇改善の遅れ、大手の参入による競合、物価高による運営コストの上昇を挙げ、赤字が膨らむ前に早めに休廃業を選ぶ事業者が増えていると分析しています。

    こうした数字は、介護事業の経営者にとって「自分だけの問題ではない」ことを示しています。同時に、利用者や職員を抱えたまま事業を閉じる事例が増えていることも意味します。引き継ぐ側から見れば、人材と利用者を一体で受け入れられる事業所には一定の需要があるとも言えます。

    介護事業の承継で押さえたい4つの特徴

    1. 指定は「事業者」と「事業所」に結びついている

    介護保険の居宅サービスの指定は、事業を行う者の申請により、サービスの種類と事業所ごとに行われます(介護保険法70条1項)。指定は6年ごとに更新を受ける必要があります(同法70条の2第1項)。

    つまり、指定は「建物」や「看板」ではなく、誰が(どの事業者が)、どこで(どの事業所で)、何のサービスを行うかに対して与えられています。承継の方法によって、指定をそのまま使えるのか、引き継ぐ側で改めて手続が必要になるのかが変わります。

    2. 職員は「人員基準」を満たすための経営資源

    介護事業では、管理者や各サービスの専門職など、人員基準を満たす職員がいなければ事業を続けられません。引継ぎの対象として最も価値があるのは、設備よりも働き続けてくれる職員であることが少なくありません。

    3. 利用者の生活がかかっている

    利用者にとって事業所は生活の一部です。事業者が変わる場合や事業を閉じる場合は、本人・家族・ケアマネジャーへの説明と調整に時間がかかります。

    4. 施設の土地・建物がオーナー個人の財産であることが多い

    小規模な事業者では、事業所の建物や敷地を経営者個人やその家族が所有し、会社に貸しているケースがよくあります。事業の行き先と、不動産の行き先を別々に考える必要があります。

    3つの選択肢を比べる

    次の表は、AEGISが整理した比較の視点です。

    比較の軸株式譲渡(会社ごと)事業譲渡(事業所単位)休止・廃止
    指定法人が変わらないため原則そのまま。役員・管理者などの変更は届出引き継ぐ側で指定を受ける手続が必要になるのが一般的。空白期間を作らない調整が要る休止・廃止の1か月前までに届出
    職員雇用契約はそのまま続く一人ひとりの同意を得て、引き継ぐ側と雇用契約を結び直す雇用の終了。再就職への配慮が必要
    利用者契約関係は続く(説明は必要)新しい事業者との契約に切り替える他の事業所への移行を調整する
    施設の不動産会社所有なら会社とともに移る。個人所有なら賃貸を続けるか売却するか譲渡対象に含めるか、賃貸で使ってもらうかを決める用途転換・売却・賃貸の検討
    借入・保証会社の借入は残る。経営者保証の扱いを交渉引き継がない負債は売り手側に残る資産の処分で返済。不足すれば保証の問題
    売り手の手取り株主が株式の対価を受け取る会社(個人事業なら事業主)が対価を受け取る清算後の残余財産のみ

    株式譲渡:指定と雇用を維持しやすい

    会社の株式を譲る方法では、事業者である法人そのものは変わりません。そのため指定や雇用契約、利用者との契約は原則として続きます。ただし、指定事業者は事業所の名称や所在地などに変更があったときは、10日以内に届け出る必要があります(介護保険法75条1項)。役員や管理者が交代する場合の届出事項は、所轄の自治体に確認しておきましょう。

    一方で、会社の過去の運営や債務も丸ごと引き継がれるため、買い手は介護報酬の請求内容や人員配置の記録、労務管理などを詳しく調べます。記録が整っていない会社ほど、価格や条件が厳しくなりがちです。

    事業譲渡:事業所ごとに切り出せるが、手続が多い

    複数の事業所のうち一部だけを譲る、あるいは個人事業として運営している事業所を譲る場合は、事業譲渡が中心になります。中小企業庁の「中小M&Aガイドライン(第3版)」も、個人事業主のM&Aでは事業譲渡を用いるのが通常であり、許認可の取得などの作業が必要になると説明しています。

    介護保険の指定は事業者に対して与えられるため、事業譲渡で事業者が変わる場合には、引き継ぐ側が改めて指定を受ける手続が必要になるのが一般的です。指定日と譲渡日がずれるとサービス提供に空白が生じるため、早い段階で指定権者(都道府県・市町村)に相談し、スケジュールを合わせることが欠かせません。合併や会社分割による場合の扱いも含め、手続の詳細は自治体やサービスの種類によって異なるため、個別に確認が必要です。

    職員については、事業譲渡では雇用契約が自動的には移らず、一人ひとりの同意を得て引き継ぐ側と契約を結び直します。条件が大きく変わると転籍を望まない職員が出て、人員基準を満たせなくなるおそれもあります。

    休止・廃止:届出と利用者の移行が必須

    事業を廃止または休止する場合は、その日の1か月前までに届け出る必要があります(介護保険法75条2項)。さらに、届出をした事業者は、引き続きサービスを希望する利用者が必要なサービスを継続して受けられるよう、居宅介護支援事業者などとの連絡調整その他の便宜を提供しなければなりません(同法74条5項)。

    廃業を選ぶ場合も、「誰かに利用者と職員を引き継いでもらえないか」を同時に探ることで、地域のサービスを途切れさせずに済む可能性があります。

    施設の土地・建物をどうするか

    介護事業の承継では、施設の不動産が判断を左右することがあります。

    • 会社が所有している場合:株式譲渡なら会社とともに移ります。事業譲渡なら、不動産を譲渡対象に含めるか、売り手側に残して賃貸するかを決めます。
    • オーナー個人が所有し、会社に貸している場合:承継後も賃貸を続けるのか、買い手に売却するのかで、オーナーの手取りと将来の相続が変わります。賃料水準や契約期間は、買い手にとっても事業の採算を左右する条件です。
    • 補助金を受けて整備した施設の場合:用途の変更や処分に制限がかかることがあります。補助の条件を事前に確認しておきましょう。

    施設を福祉事業者に貸す場面の考え方は、関連記事「介護・保育施設に土地を貸すときの考え方」で整理しています。

    判断の順番:いつ、何を始めるか

    時期の目安やること
    2〜3年前事業所ごとの収支、職員の年齢構成と資格、利用者数の推移を一覧にする。施設の所有関係と借入・保証を確認する
    1〜2年前親族・職員への承継の可能性を確かめる。難しければ第三者への引継ぎを支援機関に相談する
    半年〜1年前引き継ぐ側と条件を詰める。指定の手続とスケジュールを自治体に相談する
    1か月前まで休止・廃止の場合は届出。利用者・家族・ケアマネジャーへの説明と移行の調整

    後継者が見つからない場合に、清算・第三者への引継ぎ・一部譲渡を手取りや人・資産の行き先で比べる考え方は、関連記事「黒字廃業を選ぶ前に比較したいこと」でも解説しています。

    実務上注意したいポイント

    • 秘密保持と職員への説明の順番:譲渡の検討が早い段階で広まると、職員の離職を招くことがあります。説明の時期と内容は、引き継ぐ側と相談して決めます。
    • 記録の整備:人員配置、加算の算定根拠、請求の記録が整っていることは、価格以前に「引き継げるかどうか」を左右します。
    • 価格は人と利用者で決まる:介護事業の価値は、設備よりも人員と利用者の安定性に左右されます。価格の考え方は関連記事「中小企業の譲渡価格はどう決まるか」で整理しています。

    • 相談先の活用:事業承継・引継ぎ支援センターや、よろず支援拠点などの公的窓口も利用できます。厚生労働省も、小規模な介護事業者の協働化・大規模化に関する資料や相談窓口を公表しています。

    AEGISの視点

    介護事業の承継では、「事業」「人」「利用者」「不動産」「会社の株式」がそれぞれ別の手続と別の相手を持っています。経営者が疲弊していると、これらをまとめて「もう閉じるしかない」と判断しがちです。

    AEGISは、まずこれらを分けて並べることが出発点だと考えています。事業所は他の事業者に引き継いでもらい、施設の土地・建物はオーナー家が持ち続けて賃料を受け取る。あるいは会社ごと譲り、不動産も合わせて売却して老後と相続の資金を確保する。分けて考えることで、利用者と職員を守りながら、オーナー家の資産と承継も設計できる選択肢が見えてきます。

    承継の検討は、経営の判断であると同時に、施設という不動産と、その先の相続の判断でもあります。事業承継をどこから始めるかの全体像は、関連記事「事業承継は何から始めるべきか」で解説しています。

    事業用不動産の所有や承継にかかわる税務の考え方は、アイジス税理士法人の専門領域でも紹介しています。

    まとめ

    • 介護事業を続けられないときの選択肢は、株式譲渡・事業譲渡などによる承継と、休止・廃止の3つに整理できます。
    • 介護保険の指定はサービスの種類と事業所ごとに与えられ、承継の方法によって指定の扱いが変わります。
    • 事業譲渡では、職員の同意と引き継ぐ側での指定手続が必要になるのが一般的です。
    • 休止・廃止は1か月前までの届出と、利用者が継続してサービスを受けられるための調整が求められます。
    • 施設の土地・建物は、事業の行き先とは別に、売る・貸す・残すを判断します。
    • 具体的な手続や可否は、サービスの種類や自治体、個別の事情によって異なります。

    よくある質問

    Q. 介護事業所を譲り受ける側は、新たに指定を受ける必要がありますか?

    会社ごと引き継ぐ株式譲渡では、事業者である法人が変わらないため、指定は原則として続きます。事業譲渡などで事業者が変わる場合は、引き継ぐ側が指定を受ける手続が必要になるのが一般的です。サービスの種類や自治体によって扱いが異なるため、計画の早い段階で指定権者に相談してください。

    Q. 廃業するとき、利用者にはいつまでに伝えればよいですか?

    事業の休止・廃止は、その日の1か月前までに届け出る必要があります。利用者が別の事業所へ移るには、ケアマネジャーとの調整を含めて時間がかかるため、届出よりも前に説明と移行の準備を始めるのが現実的です。

    Q. 赤字の事業所でも引き継いでもらえますか?

    可能性はあります。引き継ぐ側は、職員や利用者、地域での実績を評価することがあり、赤字であっても自社の運営に組み込めば採算が合うと考える場合もあります。ただし価格や条件は厳しくなりやすいため、判断が遅れるほど選択肢は狭まります。

    Q. 施設の建物は私個人の所有です。事業を譲っても建物は手元に残せますか?

    残せます。事業だけを譲り、建物は引き継いだ事業者に賃貸する形も選択肢です。その場合、賃料・契約期間・修繕の負担を明確にしておくことが、オーナー家の収入と将来の相続の両面で重要です。

    Q. 職員を全員引き継いでもらうことはできますか?

    株式譲渡であれば雇用契約はそのまま続きます。事業譲渡では、職員一人ひとりの同意を得て、引き継ぐ側と雇用契約を結び直す必要があります。労働条件の変化を丁寧に説明し、引き継ぐ側と雇用の継続について合意しておくことが大切です。

    関連するAEGISのソリューション

    この記事のテーマに関連する、AEGISのソリューションです。

    • 事業承継:後継者、経営権、株式、資金、ご家族の意向を確認し、贈与・相続・売買・M&Aなどの方法を比べながら承継計画を検討します。
    • M&A:会社売却の方針、取引条件、税引後の受取額、売却後の資産管理を検討します。
    • 個人事業の継続と承継:個人事業を長く続け、次の世代へ引き継ぐための事業資金・契約・金融機関対応などを確認します。

    参考資料・出典

    公的資料・一次情報

    書籍

    • 『中小企業M&AのFA業務マニュアル』渡部潔著、中央経済社、2025年、P.59-73、P.192-199

    その他参考資料

    • 東京商工リサーチ「2025年『介護事業者』の休廃業・解散653件 苦境の『訪問介護』が押し上げ、過去最多を更新 ~2025年『介護事業』休廃業・解散動向調査~」(TSRデータインサイト、2026年1月23日)
      https://www.tsr-net.co.jp/data/detail/1202326_1527.html
      確認日:2026-10-10
  • 賃貸管理会社・不動産会社を売るとき|管理受託契約とオーナーの同意、宅建業免許・管理業登録、資格者、評価のポイント

    賃貸管理会社・不動産会社を売るとき|管理受託契約とオーナーの同意、宅建業免許・管理業登録、資格者、評価のポイント

    賃貸管理会社や不動産会社を売るときに押さえたいのは、「免許・登録」「管理受託契約」「資格者」の3つが、会社と一緒に買い手へ移るかどうかです。この3つが確実に引き継げるかどうかが、売却の可否と価格を左右します。

    会社の株式を譲渡する方法(株式譲渡)であれば、会社そのものは変わらないため、宅地建物取引業(宅建業)の免許や賃貸住宅管理業の登録、オーナーとの管理受託契約は、原則としてそのまま会社に残ります。一方、事業だけを切り出して譲渡する方法(事業譲渡)や会社分割では、宅建業の免許は買い手側で別に必要になり、管理受託契約もオーナーの承諾を得て移す必要があります。

    この記事では、不動産会社の売却に特有の論点を、免許・登録、管理受託契約とオーナーの同意、資格者の確保、評価のポイントの順に整理します。会社売却の準備全般は、親記事「会社売却を考えるなら何年前から準備するか」で解説しています。

    不動産会社の売却で何が問題になるか

    不動産会社の価値は、建物や設備よりも、免許・登録という「営業の資格」、オーナーとの契約という「収益の源泉」、取引士などの「人」に支えられています。

    引き継ぐものなぜ重要か売却時に起きやすい問題
    宅建業の免許仲介や売買を行うための前提事業譲渡では引き継げない、役員変更で届出が必要
    賃貸住宅管理業の登録200戸以上の管理受託に必要同上
    管理受託契約毎月の管理報酬という安定収益の源泉オーナーの解約、契約の地位の移転に承諾が必要
    専任の宅地建物取引士・業務管理者免許・登録の要件そのもの売却を機に退職すると要件を欠く
    預り金(家賃・敷金など)オーナーと入居者のお金分別管理の不備は買い手の大きな懸念

    宅建業の免許・管理業の登録はどうなるか

    株式譲渡なら、会社の免許・登録は原則そのまま

    株式譲渡では、株主が変わるだけで会社は同じです。中小企業庁の「中小M&Aガイドライン(第3版)」でも、株式譲渡は会社の資産・負債や契約、許認可などが原則として存続し、許認可の再取得が不要である点がメリットとされています。

    ただし、株主の交代にあわせて役員が変わる場合は注意が必要です。

    • 宅建業:免許の申請事項である役員の氏名や、事務所ごとの専任の宅地建物取引士の氏名に変更があった場合は、30日以内に変更の届出が必要です(宅地建物取引業法9条)。新たに役員になる人が、免許の基準に定める欠格事由に当たらないかも確認が必要です。
    • 賃貸住宅管理業:登録の申請事項(役員の氏名、営業所の所在地など)に変更があった場合は、30日以内に届け出なければなりません(賃貸住宅の管理業務等の適正化に関する法律7条)。

    事業譲渡・会社分割では、免許は買い手側で必要になる

    宅地建物取引業法にも賃貸住宅管理業法にも、免許や登録を事業の譲受人や合併・分割の相手先へ引き継ぐ規定は設けられていません。合併で会社が消滅した場合は、その旨の届出が必要になります(宅地建物取引業法11条、賃貸住宅管理業法9条)。

    そのため、事業譲渡や会社分割で不動産事業を切り出す場合は、事業を受け入れる会社が自ら免許・登録を持っているか、新たに取得する必要があります。許認可の再取得には時間がかかり、その間は営業できないため、スキームの選択は免許・登録の扱いを起点に考えることが大切です。

    それでも事業譲渡が選ばれるのは、たとえば次のような場合です。

    • 仲介部門と管理部門のうち、一方だけを売りたい場合
    • 買い手が、売り手の会社の過去の取引から生じるかもしれない債務(簿外債務・偶発債務)を引き継ぎたくない場合
    • 買い手がすでに免許・登録を持つ同業の不動産会社で、管理物件だけを自社に取り込みたい場合

    いずれの場合も、オーナーの承諾の取得や従業員の転籍の同意など、株式譲渡より手続きが多くなる点を見込んでおく必要があります。株式譲渡と事業譲渡の違いは、関連記事「株式譲渡と事業譲渡の比較ポイント」で整理しています。

    管理受託契約とオーナーの同意

    株式譲渡でも、オーナーの理解が欠かせない

    株式譲渡では、管理受託契約の当事者(管理会社)は変わらないため、法律上はオーナーの承諾なく契約は続きます。しかし、次の点には注意が必要です。

    • チェンジ・オブ・コントロール条項:契約に「株主や経営権が変わった場合は通知する」「相手方の承諾が必要」「解除できる」といった定めがないかを確認します。
    • 解約の自由度:管理受託契約は、一定の予告期間を置けば中途解約できる定めになっていることが多く、オーナーが経営者の交代に不安を感じれば、解約されるおそれがあります。
    • 担当者との関係:オーナーとの関係が、売り手の社長個人や特定の担当者に強く依存している場合、その人が抜けると契約の継続が揺らぎます。

    事業譲渡では、契約ごとにオーナーの承諾が必要

    事業譲渡で管理受託契約を買い手に移す場合、契約上の地位の移転には、契約の相手方であるオーナーの承諾が必要です(民法539条の2)。管理物件が多ければ、オーナー一人ひとりから承諾を得る手間と時間がかかり、承諾が得られない契約は移せません。サブリース(借上げ)方式の契約がある場合も、同様にオーナーとの調整が必要です。

    オーナーへの説明の時期と内容は、秘密保持とのバランスを取りながら、売り手と買い手で事前に段取りを決めておくことが大切です。

    資格者と管理体制の確保

    専任の宅地建物取引士と業務管理者

    宅建業者は、事務所ごとに、業務に従事する人の5人に1人以上の割合で専任の宅地建物取引士を置く必要があり、この要件を欠いた場合は2週間以内に必要な措置を取らなければなりません(宅地建物取引業法31条の3)。賃貸住宅管理業者は、営業所ごとに業務管理者を選任する必要があり、業務管理者が欠けると、新たに選任するまでその営業所では管理受託契約を結べません(賃貸住宅管理業法12条)。

    売却を機に取引士や業務管理者が退職すると、免許・登録の要件を満たせなくなるおそれがあります。売り手の社長自身が取引士である場合は、退任後の後任をどう確保するかも、売却条件の重要な論点です。

    預り金の分別管理

    賃貸住宅管理業者は、管理業務で受け取った家賃・敷金・共益費などを、自社の財産と分けて管理しなければなりません(賃貸住宅管理業法16条)。買い手の調査(デュー・デリジェンス)では、預り金の残高と通帳・帳簿の一致、オーナーへの送金の遅れがないかが必ず確認されます。分別管理に不備があると、それだけで取引が止まることもあるため、売却を考え始めた段階で点検しておきたい項目です。

    評価のポイント

    不動産会社の譲渡価格は、一般に、純資産を時価に直した金額に、将来の収益力を反映した「のれん」を加えて考える方法や、将来のキャッシュフローから考える方法などで検討されます。不動産会社に特有の評価のポイントは次のとおりです。

    • 管理戸数と管理報酬の安定性:管理戸数、管理報酬率、過去数年の解約率、オーナーの集中度(特定のオーナーに依存していないか)
    • 仲介・売買の収益の変動:仲介手数料や自社売買の利益は、市況によって大きく変動します。過去の実績が今後も続くかを、買い手は慎重に見ます。
    • 販売用不動産の評価:自社で保有する販売用不動産は、時価への見直しの対象となり、含み損があれば価格に影響します。
    • 人への依存度:社長や特定の担当者が抜けた後も、オーナーや取引先との関係が続く体制かどうか。

    譲渡価格の決まり方の全体像は、関連記事「中小企業の譲渡価格はどう決まるか」で整理しています。

    売却前に整えておきたいこと

    • 免許・登録の内容(役員、事務所、専任の取引士、業務管理者)と、届出が最新の状態か
    • 管理受託契約書の有無と、契約ごとの解約条項・チェンジ・オブ・コントロール条項
    • 管理物件の一覧(戸数、管理報酬、契約期間、オーナーの属性)
    • 預り金の分別管理と、オーナーへの送金の記録
    • 取引士・業務管理者の在籍状況と、売却後の継続意向
    • 社長個人が所有する事務所や物件と、会社との賃貸借関係

    売却後に、売り手が表明した事実と異なる点が見つかった場合の責任の範囲は、契約の表明保証条項で定めます。詳しくは関連記事「表明保証と売主の責任」で解説しています。

    AEGISの視点

    不動産会社、とりわけ賃貸管理会社の価値の中心は、オーナーとの間で長年積み重ねてきた「信頼の契約」にあります。株式を譲渡すれば法律上の契約は残りますが、オーナーが新しい経営者を信頼できなければ、契約は解約という形で静かに失われていきます。

    AEGISは、不動産会社の売却を「会社を売る」ことにとどめず、オーナーの大切な資産の管理を、誰に、どのような形で引き継ぐかという視点で考えることが大切だと考えています。免許・登録の要件や預り金の管理を整えることは、買い手の調査に備えるためだけでなく、管理を任せてくれているオーナーへの責任を果たすことでもあります。

    また、売却で得た資金の使い方や、社長個人が所有する不動産の扱い、売却後の生活と相続まで含めて設計すると、「渡せる会社」としての準備が整い、売り手にとっても納得のいく売却につながると考えています。

    まとめ

    • 不動産会社の売却では、免許・登録、管理受託契約、資格者の3つが会社と一緒に移るかどうかが要になります。
    • 株式譲渡なら、会社の免許・登録や管理受託契約は原則としてそのまま残りますが、役員の変更などの届出は必要です。
    • 事業譲渡や会社分割では、宅建業の免許・管理業の登録は買い手側で必要になり、管理受託契約の移転にはオーナーの承諾が必要です。
    • 専任の宅地建物取引士や業務管理者の継続と、預り金の分別管理は、売却前に必ず確認したい項目です。
    • 評価では、管理戸数と解約率、仲介収益の変動、人への依存度などが見られます。具体的な判断は個別の事情によって異なります。

    よくある質問

    Q. 会社を売ると、宅建業の免許は取り直しになりますか?

    株式譲渡であれば、会社が同じなので免許は原則としてそのまま使えます。ただし、役員や専任の宅地建物取引士が変わった場合は、30日以内に変更の届出が必要です。事業譲渡や会社分割で事業を移す場合は、受け入れる会社が自ら免許を持っているか、新たに取得する必要があります。

    Q. 管理を受託している物件のオーナーの同意は必要ですか?

    事業譲渡で管理受託契約を買い手に移す場合は、契約上の地位の移転にオーナーの承諾が必要です。株式譲渡では、法律上は承諾がなくても契約は続きますが、契約にチェンジ・オブ・コントロール条項がある場合や、オーナーが解約を選ぶ可能性を考えると、事前の説明と信頼の確保が欠かせません。

    Q. 社長が唯一の宅地建物取引士の場合、売却できますか?

    売却は可能ですが、社長が退任すると専任の取引士の要件を欠くおそれがあります。売却後も一定期間は社長が残る、後任の取引士を事前に確保する、といった対応を売却条件の中で決めておく必要があります。

    Q. 管理戸数が少ない会社でも買い手は見つかりますか?

    管理戸数だけで決まるわけではありません。地域での信頼、オーナーとの関係の安定性、仲介や修繕の受注力なども評価されます。ただし、管理報酬の安定性は評価の重要な要素であるため、解約率やオーナーの集中度を整理しておくことが大切です。

    Q. 売却前に預り金の管理で確認すべきことは何ですか?

    家賃・敷金などの預り金が自社の財産と分けて管理されているか、帳簿と通帳の残高が一致しているか、オーナーへの送金が遅れていないかを確認します。不備がある場合は、売却の交渉を始める前に整えておくことが望まれます。

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    この記事のテーマに関連する、AEGISのソリューションです。

    • M&A:会社売却の方針、取引条件、税引後の受取額、売却後の資産管理を検討します。
    • 不動産管理と実行管理:賃料・空室・修繕・返済・会計・税務をつないで、収益不動産の管理を支援します。

    参考資料・出典

    公的資料・一次情報

    書籍

    • 渡部潔著『中小企業M&AのFA業務マニュアル』中央経済社、P.18-21、P.59、P.67-69、P.192-193、P.201、P.242-244
    • 『「全部自分でできる人」になる「不動産の仕事」大全』山本健司著、ソシム、P.016-021
  • 事業承継ファンドに会社を譲るという選択|事業会社への売却との違い、経営・役員・従業員はどうなるか

    事業承継ファンドに会社を譲るという選択|事業会社への売却との違い、経営・役員・従業員はどうなるか

    事業承継ファンドに会社を譲るとは、投資家から資金を集めて運用する投資ファンドに自社株を売却し、ファンドの支援のもとで経営体制を整えたうえで、数年後にファンドが次の株主へ株式を引き継ぐという選択です。後継者がいない会社にとって、事業会社への売却と並ぶ第三者承継の選択肢の一つです。

    ファンドへの譲渡には、会社の独立性を保ちやすい、社内の人材を次の経営者に育てやすい、管理体制の強化を支援してもらえる、といった特徴があります。一方で、ファンドはいずれ株式を手放すことが前提の株主であり、価格の考え方や調査の厳しさ、従業員の受け止め方にも、事業会社への売却とは違う点があります。

    この記事では、ファンドの仕組みと、事業会社への売却との違い、譲渡を決める前に確認したいことを整理します。

    事業承継ファンドとは

    ファンドは、一般に、投資会社が運営者となって年金基金や金融機関などの投資家から資金を集め、その資金で未上場企業などの株式を取得する仕組みです。日本では、投資事業有限責任組合契約に関する法律にもとづく組合(投資事業有限責任組合)の形がよく用いられます。この法律は、事業者に投資するための組合について、無限責任組合員と有限責任組合員を区別する制度を定め、事業者への円滑な資金供給を目的としています。

    公的な機関もファンドに関わっています。中小企業基盤整備機構は、民間の投資会社などとともに投資ファンドを組成し、資金供給とハンズオン支援によって中小企業の新事業展開や再編・承継、再生を後押しするファンド出資事業を行っています(個別企業への投資は各投資会社が行います)。

    「事業承継ファンド」という呼び方に法律上の定義があるわけではありません。一般には、後継者問題を抱える中堅・中小企業の株式を取得し、経営の引継ぎを支援することを主な投資目的とするファンドを指します。

    ファンドの基本的な行動原理

    ファンドを理解するうえで押さえておきたいのは、次の2点です。

    • 期限のある資金で投資している:ファンドの資金には運用期間があり、投資家にリターンを返す必要があります。そのため、取得した株式は一定期間の後に売却などで現金化することが前提です。この出口を「エグジット」と呼び、専門書籍では保有期間は3〜5年程度が一般的とされています。
    • 企業価値を高めることで利益を得る:ファンドは、経営管理の仕組みづくりや人材の補強、営業の強化などを通じて会社の価値を高め、エグジットのときの売却価格との差で利益を得ます。

    エグジットの方法には、事業会社への売却、別のファンドへの売却、経営陣による買取り(MBO)、株式上場などがあります。中小企業では、事業会社への売却やMBOが現実的な選択肢になることが多いとされます。

    事業会社への売却との違い

    表1:ファンドへの譲渡と事業会社への売却の比較

    観点事業承継ファンドへの譲渡事業会社への売却
    株主としての期間数年後に再び売却されることが前提長期保有が前提であることが多い
    経営の独立性会社の独立性を保ったまま経営体制を整えることが多い買い手のグループに組み込まれ、統合が進むことが多い
    経営陣社内の幹部の登用や、外部からの経営人材の招へいを支援買い手から役員が派遣されることが多い
    価格の考え方将来の収益力とエグジット時の価値から逆算し、投資効率を重視自社との相乗効果(シナジー)を価格に織り込むことがある
    株式の取得割合過半数の取得にとどめ、オーナーが一部を持ち続ける形もある全株式の取得を求めることが多い
    買収前の調査次の売却を見据え、事業・財務・法務とも詳細になりやすい買い手の方針により濃淡がある
    従業員・取引先の受け止め「次にまた売られる」ことへの不安が生じやすい新しい親会社の方針への不安が生じやすい

    ※AEGISが論点整理のために作成した表です。実際の条件はファンド・買い手ごとに大きく異なります。

    親族内承継・従業員承継・M&Aの全体の比較は、関連記事「親族内承継・従業員承継・M&Aの比較」で整理しています。

    ファンドへの譲渡が選択肢になりやすい会社

    ファンドへの譲渡がとくに検討されやすいのは、次のような会社です。

    • 社内に経営を担える人材はいるが、株式を買い取る資金がない:株式はファンドが取得し、経営は社内の幹部が引き継ぐことで、資本と経営を分ける形をとれます。幹部が将来MBOで株式を買い取る道を残す設計もあります。
    • 事業には競争力があるが、管理体制が弱い:経理・人事・労務などの管理体制をファンドの支援で整え、企業としての体力をつけてから次の株主に引き継ぐ、という段階的な承継が考えられます。
    • 同業他社のグループに入ることに抵抗がある:会社の名前や独立性をしばらく保ちながら、承継の準備を進めることができます。

    一方で、ファンドには投資の対象とする事業規模や業種の基準があり、売上規模や利益水準が一定以上でないと検討の対象になりにくい、という指摘もあります。規模の小さい会社では、ファンドが既に投資している会社が買い手となる形(いわゆるロールアップ)で話が進むこともあります。

    価格と条件の考え方

    価格

    ファンドは、会社の将来の収益力(償却前の営業利益など)をもとに事業の価値を見積もり、そこに手元資金などを加味して株式の価値を考えるのが一般的です。エグジット時に見込める価値から逆算して投資効率を判断するため、相乗効果を織り込む事業会社より価格が抑えめになることもあれば、成長の余地を評価して競争力のある価格が提示されることもあります。価格だけで比べず、条件全体で判断することが大切です。

    主な条件

    ファンドとの交渉では、価格以外に次のような条件が論点になります。

    • オーナーの残り方:引継ぎ期間中、代表取締役として残るのか、会長や顧問として支援するのか、期間と報酬をどうするか
    • 一部の株式を持ち続けるか:オーナーが一部の株式を保有し続け、エグジットのときにファンドと一緒に売却する形もあります
    • 経営陣への動機付け:残る役員や幹部に株式やストック・オプションを持ってもらうか
    • 表明保証と補償:会社の財務や法務などについて売り手が保証する内容と、違反があった場合の補償の範囲
    • 経営者保証の扱い:会社の借入れに付いているオーナーの個人保証を、譲渡のときにどう解除・移行するか

    中小企業庁の「中小M&Aガイドライン(第3版)」では、最終契約における表明保証や株価の調整に関する条項、経営者保証の扱い、クロージング後の経営統合(PMI)などについて、譲り渡す側が留意すべき点が示されています。ファンドが相手の場合も、これらの論点は同じように重要です。売却後にオーナーが担う役割と条件は、関連記事「M&A後に売り手オーナーが担う役割と条件」で詳しく解説しています。

    税金

    オーナーが個人で保有する株式をファンドに売却した場合、譲渡益は他の所得と分けて課税される申告分離課税となり、税率は所得税15%・住民税5%(このほか復興特別所得税)です。令和9年分以後の譲渡では、復興特別所得税の税率が1.1%(令和8年分までは2.1%)となり、これに加えて防衛特別所得税(税率1%)が課されます(いずれも所得税額〔基準所得税額〕に対する率)。株式の対価と役員退職金の組み合わせ方によって手取り額が変わることもあるため、関連記事「会社売却と役員退職金の組み合わせ」もあわせてご覧ください。

    会社・役員・従業員・取引先はどうなるか

    会社と役員

    ファンドの保有期間中、会社は独立した会社として事業を続けるのが一般的です。ファンドは取締役を派遣して経営方針の決定に関わり、事業計画や予算・実績の管理、月次の報告体制などを導入します。オーナーが退いた後の社長を、社内の幹部から登用するか、ファンドが外部から招くかは、交渉の段階で確認しておきたい点です。

    従業員

    雇用や処遇がすぐに大きく変わることは多くありませんが、管理の仕組みが整う過程で、目標管理や評価制度の導入など、働き方に変化が生じることはあります。また、数年後に再び株主が変わることが前提であるため、従業員が将来に不安を抱きやすい点には配慮が必要です。

    取引先と金融機関

    取引先や金融機関には、株主がファンドに変わったこと、将来さらに株主が変わる可能性があることが伝わります。主要な取引契約に、株主の変更を契約の解除事由などとする条項(チェンジ・オブ・コントロール条項)がないかを事前に確認し、説明の順序と内容を準備しておく必要があります。

    エグジットのとき

    最も気になるのは、数年後に誰に売られるかでしょう。ファンドによって、次の売却先の選び方や、元のオーナーや経営陣の意向をどこまで尊重するかは異なります。エグジットの方針は、譲渡を決める前に必ず確認しておきたい事項です。

    譲渡を決める前に確認したいこと

    表2:ファンドに確認したい質問

    確認したいこと質問の例
    投資の方針当社に投資する理由は何か、どのように企業価値を高める計画か
    保有期間とエグジット想定する保有期間と、エグジットの方法・売却先の選び方は
    経営体制社長は誰が務めるのか、社内の幹部をどう処遇するのか
    オーナーの役割引継ぎ期間中の立場・期間・報酬はどうなるか
    従業員雇用・処遇・制度について、どのような方針か
    実績同じような規模・業種への投資と、その後の経過はどうだったか

    ※AEGISが論点整理のために作成した表です。

    ファンドの中には、一度取得した株式を長く保有することを掲げる会社や、経営者を志す個人と組んで投資先を探す形(いわゆるサーチファンド)もあります。名称だけで判断せず、上のような質問を通じて、自社にとっての意味を確かめることが大切です。

    実務上注意したいポイント

    • 事業会社とファンドを並べて比べる:最初からどちらかに絞らず、条件と将来像を並べて比較すると判断がしやすくなります。
    • 調査への対応力を確認する:ファンドの買収前調査は詳細になりやすく、資料の準備に負担がかかります。管理部門の体制を見ておきましょう。
    • 個人と会社の資産を分けておく:オーナー個人名義の事業用不動産や会社との貸し借りは、譲渡の前に整理しておくことが望まれます。
    • 支援機関の立場を確認する:仲介者かフィナンシャル・アドバイザーかによって、助言の立場は異なります。中小M&Aガイドラインの考え方も参考になります。

    AEGISの視点

    AEGISは、事業承継ファンドを「最終的な引継ぎ先」ではなく、「次の引継ぎに向けて会社を整えるための、期間限定のパートナー」と捉えています。ファンドに株式を譲ることで、オーナーは経営から離れる時期をつくり、会社は管理体制や人材を整える時間を得ます。その先に、事業会社への売却やMBOといった本当の承継先が控えています。

    そのため、ファンドへの譲渡を考えるときは、譲渡価格だけでなく、エグジットのときに会社と従業員がどのような姿になっていてほしいかをオーナー自身が言葉にしておくことが大切です。あわせて、売却で得た資金をどう管理し、家族への承継や社会への還元にどうつなげるかまで考えておくと、譲渡の判断に一貫性が生まれます。

    事業承継をどこから始めればよいか、全体像は関連記事「事業承継は何から始めるべきか」で、会社売却の準備は「会社売却を考えるなら何年前から準備するか」で解説しています。

    まとめ

    • 事業承継ファンドへの譲渡は、ファンドに自社株を売却し、その支援のもとで経営体制を整え、数年後にファンドが次の株主へ引き継ぐ選択肢です。
    • ファンドは期限のある資金で投資しているため、エグジットが前提であり、価格は投資効率から考えられます。
    • 社内に経営人材はいるが株式を買う資金がない会社や、管理体制を強化したい会社では、有力な選択肢になり得ます。
    • オーナーの残り方、一部株式の継続保有、表明保証、経営者保証、従業員への説明など、価格以外の条件も重要です。
    • エグジットの方針と売却先の選び方は、譲渡を決める前に必ず確認しておきたい事項です。

    よくある質問

    Q. ファンドに売ると、会社はすぐに転売されてしまうのですか?

    ファンドは一定期間の後に株式を手放すことが前提で、専門書籍では保有期間は3〜5年程度が一般的とされています。すぐに転売されるわけではありませんが、いずれ株主が変わることを前提に、エグジットの方法や売却先の選び方を事前に確認しておくことが大切です。

    Q. 社長は売却後も会社に残れますか?

    残り方は交渉で決まります。引継ぎのために一定期間代表として残る形、会長や顧問として支援する形、売却と同時に退く形などがあります。ファンドは経営の引継ぎ体制を重視するため、期間・役割・報酬を最初の段階から話し合っておくと安心です。

    Q. 事業会社に売るより価格は低くなりますか?

    一概にはいえません。ファンドは投資効率を重視するため価格が抑えめになることもありますが、成長の余地を評価して競争力のある価格を提示することもあります。価格だけでなく、独立性、経営体制、従業員への影響、エグジットの方針などを含めて比べることをおすすめします。

    Q. 従業員にはいつ、どのように伝えればよいですか?

    一般に、最終契約の締結後など、条件が固まった段階で伝えることが多いとされています。ファンドが株主になる意味や、雇用・処遇の方針、将来の見通しを、ファンドとも相談しながら丁寧に説明することが、不安を和らげるうえで大切です。

    Q. 全株式ではなく、一部だけファンドに売ることはできますか?

    ファンドの方針によっては、過半数の株式を取得し、残りをオーナーが持ち続ける形も考えられます。この場合、エグジットのときにオーナーの株式も一緒に売却する取り決めなどを結ぶことが一般的なため、契約の内容を事前に確認しておく必要があります。

    関連するAEGISのソリューション

    この記事のテーマに関連する、AEGISのソリューションです。

    • M&A:会社売却の方針や取引条件、税引後の受取額、売却後の資産管理までを検討します。
    • 事業承継:後継者、経営権、株式、資金、ご家族の意向を確認し、贈与・相続・売買・M&Aなどの方法を比較しながら承継計画を検討します。

    参考資料・出典

    公的資料・一次情報

    書籍

    • 『中小企業M&AのFA業務マニュアル』渡部潔 著、中央経済社、2025年、第2部第7章「事業承継ファンド」(P.100-122)
  • 個人開業医の診療所を引き継ぐ方法|開設者の交代手続・建物と土地・患者と職員・医療法人化との比較

    個人開業医の診療所を引き継ぐ方法|開設者の交代手続・建物と土地・患者と職員・医療法人化との比較

    個人で開業している診療所を引き継ぐことは、会社の株式を引き継ぐこととは仕組みが大きく異なります。個人開設の診療所では、開設者である院長個人が、診療所の建物・医療機器・借入れ・職員との契約・保険診療の指定のすべての「主体」になっているため、承継は「先代が診療所を廃止し、後継者が新たに開設する」という形で、手続きと資産を一つずつ移していくことになります。

    準備の中心は、次の4つです。

    1. 開設者の交代手続(保健所・地方厚生局など)を、診療を途切れさせない段取りで進めること
    2. 建物・医療機器・診療所用地を、譲るのか、貸すのかを決めること
    3. 患者と職員を、信頼関係を保ちながら引き継ぐこと
    4. 税務と家族の財産配分を、承継の形と合わせて設計すること

    この記事では、子への承継と第三者の医師への承継の両方を念頭に、個人開業医が承継の前に確認しておきたいことを整理します。

    個人開設の診療所の承継は「廃止と開設」の組み合わせ

    会社であれば、株式を後継者に移しても会社そのものは変わらず、契約や許認可は原則として会社に残ります。これに対して個人開設の診療所では、開設者が交代すると、制度上は先代の診療所の廃止と、後継者による新たな診療所の開設として扱われるのが基本です。

    中小企業庁の事業承継ガイドラインでも、個人事業主は事業用資産を経営者個人が所有していることが多く、個々の資産を承継する必要があることが指摘されています。診療所はその典型で、次のようなものを一つずつ引き継ぐ必要があります。

    引き継ぐもの個人開設での主体承継時に必要になること
    診療所の開設院長個人先代の廃止の届出と、後継者の開設の届出
    保険医療機関の指定院長個人の診療所後継者の診療所としての指定申請
    建物・内装・医療機器院長個人の所有またはリース譲渡・贈与・相続・賃貸借、リース契約の名義変更
    診療所用地・テナント契約院長個人の所有または賃借所有権の移転か賃貸借、賃貸人との契約変更
    借入金院長個人の債務金融機関との協議(引受け・借換え・完済)
    職員院長個人との雇用契約後継者との雇用関係への切替え
    患者・カルテ院長個人の診療所事業の承継に伴う引継ぎと患者への説明

    開設者の交代に伴う手続

    保健所への届出

    医師が個人で無床の診療所を開設した場合は、開設後に保健所へ診療所開設届を提出します。医療法では、届出の期限は開設後10日以内とされています(医療法8条)。一方、専門書籍では、実務上は図面を持参した事前相談や実地検査が欠かせないことが指摘されています。先代の診療所については、廃止した日から10日以内に廃止の届出が必要です(同法9条1項)。

    診療所の許可・届出の取扱いは、自治体によって運用の細部が異なります。東京都も、診療所の許可・届出の手続きについては各保健所に問い合わせるよう案内しています。承継の時期が見えてきたら、早めに所轄の保健所に相談するのが確実です。X線装置を設置している場合は、その届出も新しい開設者として改めて必要になります。

    保険医療機関の指定

    保険診療を続けるには、後継者の診療所として地方厚生局の保険医療機関の指定を受ける必要があります。指定を受けるまでの間に保険診療の空白が生じないかが、承継実務で最も気になる点です。

    この点について、地方厚生局は一定の場合に遡及指定(新しい指定の効力を開設日にさかのぼらせる扱い)を認めています。関東信越厚生局の案内では、令和8年9月1日以降、「保険医療機関等の遡及指定及び機能移転の取扱いについて」(令和8年6月5日 保医発0605第2号)に基づいて運用されるとされ、次のような類型が示されています。

    • 個人開設者の死亡や病気により、親族や勤務医が引き継いで患者の診療を継続する場合
    • 同一都道府県内の至近距離(直線距離2km以内)への移転、または開設者のみの変更(個人から個人、個人から法人など)で、基本的な要件を満たす場合
    • それ以外の場合(原則として希望日の3か月前までに予定の届出と事前相談)

    遡及指定が認められるかどうか、必要な書類や事前相談の要否は、承継の形によって変わります。承継日を決める前に、管轄の地方厚生局の取扱いを確認しておくことが大切です。

    その他の手続

    税務署には、先代の廃業届と後継者の開業届、青色申告の承認申請などを提出します。労災保険や生活保護法などの指定医療機関、雇用保険・社会保険の手続、医師会や取引先への連絡も、開設者の交代に合わせて必要になります。

    建物・医療機器・診療所用地をどう引き継ぐか

    承継の設計で判断が分かれるのが、資産を「譲る」か「貸す」かです。

    方法主な場面確認したい点
    売買(譲渡)第三者の医師への承継、親子でも対価を払う場合価格の根拠、先代の譲渡所得課税、後継者の資金調達
    贈与親子間で生前に引き継ぐ場合贈与税の負担、他の家族との公平
    相続(遺言)先代の死亡時に引き継ぐ場合遺言の有無、遺産分割の見通し、相続税の特例
    賃貸借建物・土地は先代や家族が所有し続ける場合賃料水準、契約書、修繕の負担区分

    子への承継では、建物と土地は親が持ち続けて子に貸し、医療機器だけを譲るという形がよく検討されます。この場合、親子間であっても賃貸借契約書を作り、賃料・修繕・契約期間を明確にしておくことが、後の相続や兄弟姉妹との関係を考えるうえで重要です。賃料を無償にするか有償にするかで、所得税や相続税の扱いも変わります。

    診療所用地を親が所有したまま相続を迎える場合、一定の要件を満たせば、事業用の宅地として小規模宅地等の特例(400㎡まで80%減額)の対象になり得ます。また、個人の事業用資産にかかる贈与税・相続税の納税猶予(個人版事業承継税制)も、医業を含む個人事業の承継で検討対象になります。両者には選択関係があるため、制度の詳細は関連記事「個人版事業承継税制で個人事業を引き継ぐ」をご覧ください。

    テナントで開業している場合は、賃貸人の承諾を得て賃借人の地位を後継者に移すか、新たに契約を結び直す必要があります。保証金の扱いや原状回復の範囲も、この段階で整理しておきます。

    患者と職員をどう引き継ぐか

    患者・カルテ

    個人情報保護法では、合併その他の事由による事業の承継に伴って個人データが提供される場合、提供を受ける側は第三者に当たらないとされています(同法第27条第5項第2号)。そのため、事業の承継に伴うカルテの引継ぎ自体は可能と考えられます。

    ただし、法律上可能であることと、患者が安心して通い続けてくれることは別の問題です。承継の時期や後継医師の紹介を、院内掲示や診察時の説明などで丁寧に伝え、一定期間は先代と後継者が並行して診療するなど、患者が「担当医が替わる」ことを受け入れられる時間をつくることが、承継後の経営の安定につながります。

    職員

    個人開設の診療所では、職員の雇用主は開設者個人です。開設者が替われば雇用契約の当事者も替わるため、労働条件を引き継ぐのか、見直すのかを決め、職員一人ひとりに説明して合意を得る必要があります。退職金の扱いや有給休暇の残日数など、先代の時代の取決めの精算方法も確認しておきます。

    第三者の医師に引き継ぐ場合

    子が医師でない、あるいは継がない場合は、第三者の医師への承継が選択肢になります。稼働中の診療所を患者・職員ごと引き継ぐ形と、休診後に内装や医療機器が残った状態で譲る形とでは、患者が戻る見込みも価格の考え方も異なります。

    専門書籍では、売り手は借入金の残額に営業権を上乗せした価格を求めがちである一方、患者数の少ない診療所では内装や医療機器がほとんど評価されないこともあると指摘されています。価格だけでなく、承継後に先代がどの程度診療に関わるか、建物や土地を貸し続けるのかといった条件を含めて交渉することが現実的です。個人事業を第三者に譲るときの全体像は、関連記事「個人事業を第三者に譲る方法」で扱っています。

    医療法人化してから引き継ぐという選択肢

    承継の前に診療所を医療法人にしておけば、承継は「理事長の交代」と「社員・役員の入替え」で行えるようになり、開設者の交代に伴う手続きの多くを避けられます。一方で、次のような点も比較が必要です。

    比較の観点個人開設のまま承継医療法人化してから承継
    承継の手続廃止と開設、指定の取り直しが必要理事長・役員の交代が中心
    設立の手間—都道府県の認可が必要で、受付時期が限られることがある
    財産の帰属資産は院長個人のもの法人の財産と個人の財産が分かれる
    運営上の負担個人の確定申告決算の届出、役員変更の届出・登記など
    解散時—現在設立できる医療法人は出資持分がなく、残余財産の帰属先に制限がある

    医療法人の設立には、都道府県知事の認可が必要です。認可の受付時期や必要書類は都道府県によって異なるため、承継の時期から逆算して、法人化の要否を早めに判断する必要があります。医療法人化そのものの是非や、開業時の形の選び方は、関連記事「医師・士業が独立開業するときの形の選び方」も参考になります。

    実務上注意したいポイント

    • 承継日を先に決めない:保健所・地方厚生局への相談と、遡及指定の可否を確認したうえで、承継日を確定させます。
    • 借入金とリースの扱いを早めに金融機関と相談する:個人の債務は自動的に後継者へ移りません。引受け、借換え、完済のいずれにするかで、後継者の資金計画が変わります。
    • 親子間でも契約書を作る:建物・土地の賃貸借、医療機器の譲渡価格などを書面で残しておくと、相続時の説明や他の家族の理解が得やすくなります。
    • 他の家族への配分を同時に考える:診療所の資産を後継者に集中させると、医師でない兄弟姉妹との公平が問題になることがあります。遺言や生前の財産配分と合わせて検討します。

    AEGISの視点

    開業医の承継では、手続きの多さに目が向きがちです。しかしAEGISは、承継の成否を左右するのは手続きそのものよりも、「診療所という事業」と「院長個人の財産」をどこで切り分けるかという設計だと考えています。

    個人開設の診療所では、建物や土地、医療機器、預金、借入れが院長個人の財産と一体になっています。承継を機に、事業に必要な資産と、院長個人と家族の生活・老後のための資産を分けて整理すると、「何を後継者に渡し、何を手元に残し、何を他の家族に配分するか」が見えてきます。建物や土地を院長側に残して賃貸する設計は、後継者の初期負担を抑えつつ、先代の老後の収入源にもなりますが、その場合は不動産として長く管理し続ける視点も必要になります。

    また、地域の患者にとって診療所は生活の一部です。承継を「資産の移転」だけでなく、「地域医療の担い手の交代」として、患者や職員への伝え方まで含めて準備することが、結果として事業価値を守ることにつながるとAEGISは考えています。

    事業承継の全体像は「事業承継は何から始めるべきか」で整理しています。

    承継に伴う資産税務の論点については、アイジス税理士法人の専門領域でもAEGISの考え方を紹介しています。

    まとめ

    • 個人開設の診療所の承継は、先代の廃止と後継者の開設を組み合わせる形で進めるのが基本です。
    • 保健所への届出、地方厚生局の保険医療機関の指定(遡及指定の可否を含む)を、診療を途切れさせない段取りで準備します。
    • 建物・医療機器・診療所用地は、譲るか貸すかを決め、親子間でも契約書で条件を明確にします。
    • 患者情報は事業の承継に伴って引き継ぐことができますが、患者・職員への丁寧な説明が承継後の安定を左右します。
    • 医療法人化してから承継する方法もありますが、設立の手間や運営の負担と比べて判断します。具体的な取扱いは、自治体・地方厚生局の運用や個別事情によって異なります。

    よくある質問

    Q. 親が院長の診療所を子が継ぐ場合も、新規開設の扱いになりますか?

    個人開設の診療所は院長個人が開設者のため、開設者が親から子に替わる場合は、先代の診療所の廃止と後継者による開設として手続きを行うのが基本です。保険医療機関の指定についても後継者の診療所として申請が必要ですが、開設者のみの変更など一定の場合には遡及指定の取扱いがあります。具体的な扱いは管轄の保健所・地方厚生局に確認してください。

    Q. 承継の前後で保険診療ができない期間は生じますか?

    遡及指定が認められれば、新しい開設日にさかのぼって保険医療機関として扱われるため、空白を避けられる場合があります。ただし、認められる類型や事前相談の要否が定められているため、承継日を決める前に確認することが重要です。

    Q. カルテは患者の同意なしに後継者へ引き継げますか?

    個人情報保護法では、事業の承継に伴う個人データの提供は第三者提供に当たらないとされています。そのため引継ぎ自体は可能と考えられますが、患者への周知や説明を丁寧に行い、患者の意思を尊重する姿勢が大切です。

    Q. 診療所の土地と建物は、子に贈与したほうがよいですか?

    一概にはいえません。贈与すれば後継者が自由に使えますが、贈与税の負担や他の家族との公平の問題が生じます。親が所有したまま子に貸す方法、相続時に引き継ぐ方法などと比べ、税負担・家族の配分・親の老後の収入を合わせて判断します。

    Q. 承継の前に医療法人にしたほうが有利ですか?

    医療法人化すると承継手続きは簡素になりますが、設立には都道府県の認可が必要で、決算や役員変更の届出など運営の負担も増えます。現在設立できる医療法人は出資持分がないため、財産の帰属の考え方も変わります。承継までの期間や診療所の規模を踏まえて比較することが必要です。

    関連するAEGISのソリューション

    この記事のテーマに関連する、AEGISのソリューションです。

    • 個人事業の継続と承継:個人事業を長く続け、次世代へ引き継ぐための準備として、事業資金・民事信託(いわゆる家族信託)・遺言・契約・金融機関対応を確認します。
    • 事業承継:後継者、経営権、資金、ご家族の意向を確認し、承継の計画から実行までを支援します。
    • 不動産管理と実行管理:賃料・空室・修繕・返済・会計・税務をつないで、収益不動産の管理を支援します。

    参考資料・出典

    公的資料・一次情報

    書籍

    • 『税理士・公認会計士のための 医業経営コンサルティングの実務ノウハウ(第2版)』西岡秀樹 著、中央経済社、P.172-182、P.183-187、P.206-211
    • 『Q&A医療機関の組織変更の実務と税務 第3版』税理士法人山田&パートナーズ 編、財経詳報社、P.236-240
  • 黒字廃業を選ぶ前に比較したいこと|清算・第三者への引継ぎ・事業の一部譲渡を、手取り・人・資産の行き先で比べる

    黒字廃業を選ぶ前に比較したいこと|清算・第三者への引継ぎ・事業の一部譲渡を、手取り・人・資産の行き先で比べる

    「業績は悪くない。でも継ぐ人がいないから、自分の代で終わりにしよう」——黒字のまま会社をたたむ、いわゆる黒字廃業を考えるオーナーは少なくありません。中小企業庁の事業承継ガイドラインでも、廃業は事業承継と並ぶ検討対象として取り上げられています。

    廃業は、決して後ろ向きな選択ではありません。ただ、黒字の会社には、取引先、従業員の技能、顧客との関係、事業用の不動産など、会社をたたむと失われてしまう価値があります。結論から言えば、黒字廃業を決める前に、少なくとも「清算した場合の手取り」と「引き継いだ場合の手取り」、そして「人と資産がどこへ行くか」を並べて比べることが大切です。

    この記事では、廃業(清算)の流れと課税のしくみを確認したうえで、第三者への引継ぎ、事業の一部譲渡などの選択肢と比べる考え方を整理します。

    黒字廃業とは何か

    黒字廃業とは、利益が出ていて資産が負債を上回っている会社が、後継者の不在や経営者の高齢化などを理由に、事業をやめて会社を解散・清算することをいいます。債務超過で事業を続けられなくなる廃業とは異なり、借入をすべて返したうえで、残った財産を株主に分配できるのが特徴です。

    だからこそ、「借金がないうちに、きれいにたたみたい」という考えには合理性があります。一方で、その会社を必要としている人がいる場合や、事業として買い手がつく場合には、廃業以外の選択肢の方が、オーナー自身にとっても関係者にとっても望ましい結果になることがあります。

    会社をたたむ流れ

    株式会社の廃業は、一般に次のような流れで進みます。

    1. 方針の決定と準備:従業員、取引先、金融機関への説明の時期と順番を決める
    2. 解散:株主総会の特別決議(原則として出席株主の議決権の3分の2以上)で会社を解散し、清算人を選任する
    3. 清算:取引を終了し、資産を売却・回収し、債務を支払う。債権者に対しては、2か月以上の期間を定めて債権の申出を求める官報公告と、知れている債権者への個別の催告を行う
    4. 残余財産の分配:すべての債務を支払った後に残った財産を株主に分配する
    5. 清算結了:清算事務を終え、登記を行う

    税務面では、解散した日で事業年度が区切られ、清算中の事業年度、残余財産が確定した事業年度ごとに申告が必要になります。清算中も法人税の申告は続き、資産の売却で生じた利益にも課税されます。申告期限は、解散の日までの事業年度や清算中の事業年度は原則として事業年度終了の日の翌日から2か月以内、残余財産が確定した事業年度は確定の日の翌日から1か月以内(その期間内に残余財産の最後の分配を行う場合は、その前日まで)です。手続には相応の期間がかかるため、廃業を決めた時点から逆算して準備することが欠かせません。

    清算するとき、税金はどこにかかるか

    黒字廃業で見落とされやすいのが、清算時の課税です。課税は「会社の段階」と「株主の段階」の二つで考えます。

    会社の段階:資産の売却益への課税

    清算の過程で、不動産や有価証券などを売却して利益が出れば、会社に法人税等がかかります。長年保有している土地や建物に含み益がある場合、この負担は小さくありません。

    株主の段階:みなし配当

    残余財産の分配を受けた株主は、分配額のうち、その株式に対応する資本金等の額を超える部分が配当とみなされ(みなし配当。所得税法25条)、配当所得として課税されます。配当所得は原則として総合課税の対象となるため、他の所得と合算され、分配額が大きいほど高い税率が適用されやすくなります。

    これに対し、会社の株式をそのまま第三者に売却する場合、非上場株式の譲渡益は申告分離課税で、税率は所得税・住民税をあわせて20%(ほかに復興特別所得税)です。同じ会社の価値を現金化するのでも、「清算して分配を受ける」か「株式を売る」かで、税金のかかり方が大きく変わる点は、比較のうえで重要です。

    役員退職金をどう考えるか

    清算の前にオーナーが役員を退任し、退職金を受け取ることもあります。退職所得は、収入金額から退職所得控除額を差し引いた額の2分の1が課税の対象となり、他の所得と分離して計算されます(役員等としての勤続年数が5年以下の場合などには、2分の1の計算が適用されない場合があります)。退職金を支払えば会社に残る財産は減るため、残余財産の分配との組み合わせで手取りが変わります。ただし退職金の額には、職務や在任期間に照らした相当性が求められます。

    廃業以外の選択肢

    後継者が親族や社内にいなくても、会社や事業を引き継ぐ方法はあります。

    • 第三者への株式譲渡(M&A):会社ごと譲り渡す方法です。従業員の雇用や取引先との契約が、原則としてそのまま会社に残ります。
    • 事業譲渡:会社の事業の全部または一部を、他の会社に譲り渡す方法です。不採算部門を残して主要な事業だけを引き継いでもらうこともできます。譲渡後に会社を清算する場合は、上記の清算時の課税も合わせて考えます。
    • 事業の一部の引継ぎ:会社全体の買い手が見つからなくても、特定の取引先、技術、ブランド、店舗などを、同業者や取引先に引き継いでもらう方法があります。
    • 役員・従業員への承継:社内に意欲のある人材がいれば、資金調達の工夫で承継できることがあります。
    • 社会貢献の形での承継:事業や財産の一部を、地域や社会のために生かす形(財団の活用など)で残すことを考えるオーナーもいます。

    第三者への引継ぎについては、公的な相談窓口である「事業承継・引継ぎ支援センター」で相談することもできます(中小企業基盤整備機構の事業承継・引継ぎポータルサイトで案内されています)。

    5つの視点で比べる

    比べる視点清算(廃業)第三者への株式譲渡事業の全部・一部の譲渡
    オーナーの手取り残余財産の分配(みなし配当中心)+役員退職金株式の譲渡代金(申告分離課税)+役員退職金会社が受け取る譲渡代金を、清算等で受け取る
    従業員雇用は終了。再就職支援が課題原則として雇用は継続引き継がれる事業の範囲で継続
    取引先・顧客供給の停止。代替先の確保が必要原則として取引は継続譲渡対象の取引は継続
    事業用不動産売却・賃貸・自己利用など行き先を決める会社所有なら会社ごと移る。オーナー個人所有なら賃貸・売却の条件を決める譲渡対象に含めるか、残して活用するかを決める
    時間と不確実性自分で進められるが、手続に一定の期間買い手探しに時間がかかり、成立しないこともある部分的でも成立しやすい場合がある

    ※上表は一般的な傾向を整理したものです。実際の手取りや影響は、会社の資産構成・株主構成・契約内容によって大きく異なります。

    「手取り」は税引後で比べる

    M&Aの提示額と清算時の残余財産を、税引前の金額で比べると判断を誤ります。清算は会社段階と株主段階の二重の課税を受けやすく、株式譲渡は分離課税の対象になるため、最終的にオーナーの手元に残る金額で比べることが基本です。

    「人」の行き先を数字と同じ重さで考える

    黒字廃業では、従業員の雇用、取引先の供給網、顧客へのサービスが途切れます。オーナーにとって、長年支えてくれた人たちの行き先は、手取りと同じくらい重要な判断材料になるはずです。

    「不動産」の行き先を先に決める

    工場や店舗、事務所の土地・建物は、廃業後の扱いを決めないと遊休資産になります。オーナー個人が所有して会社に貸している場合は、廃業によって賃料収入がなくなり、相続の対象として残ることになります。売却・賃貸・別の事業への活用など、廃業とセットで行き先を検討します。

    実務上注意したいポイント

    • 伝える順番を設計する:廃業の情報が先に広がると、従業員の離職や取引の打切りが早まり、清算時の資産価値が下がることがあります。
    • 経営者保証と借入を確認する:黒字廃業でも、借入の返済と保証の解除を確認しておく必要があります。
    • 許認可や契約の終了手続:事業に関する許認可、リース、賃貸借、取引基本契約の解約条件を一覧にします。
    • 決める前に「売れるか」を確かめる:廃業を決める前に、M&Aや事業の一部譲渡の可能性を一度確認しておくと、比較の材料がそろいます。

    AEGISの視点

    黒字廃業の相談を受けるとき、AEGISがまずお聞きするのは、「会社の何を終わらせたいのか、何を残したいのか」という問いです。

    オーナーが終わらせたいのは、多くの場合、「自分が経営の責任を負い続けること」です。必ずしも、事業そのものや、従業員の仕事、地域とのつながりまで終わらせたいわけではありません。そう整理すると、経営の責任からは退きつつ、事業や人、不動産を別の形で生かす道が見えてくることがあります。事業を第三者に引き継ぐ、事業の一部を取引先に託す、不動産を地域の需要に合う事業に活用する、財産の一部を社会貢献に充てる——選択肢は「継ぐか、たたむか」の二択ではありません。

    一方で、比較したうえで廃業を選ぶことも、十分に尊重されるべき判断です。大切なのは、手取り・人・資産の行き先を並べたうえで、オーナーが納得して選んだと言える状態をつくることだとAEGISは考えています。

    承継方法そのものの比較は「親族内承継・従業員承継・M&Aの比較」で、会社売却の準備は「会社売却を考えるなら何年前から準備するか」で、社会貢献の形で財産を生かす考え方は「社会貢献を続ける財団をどう設計するか」で解説しています。

    清算時の課税や株式・不動産の承継に関わる論点については、アイジス税理士法人の専門領域でもAEGISの考え方を紹介しています。

    まとめ

    • 黒字廃業は合理的な選択肢の一つですが、会社をたたむと失われる価値があるため、引き継ぐ選択肢と比較してから決めることが大切です。
    • 清算では、会社段階での資産売却益への課税と、株主段階でのみなし配当(原則総合課税)を考える必要があります。
    • 株式を第三者に売却する場合は、譲渡益に申告分離課税が適用されるため、税引後の手取りで比べることが基本です。
    • 比較の視点は、オーナーの手取り、従業員、取引先・顧客、事業用不動産、時間と不確実性の5つです。
    • 具体的な税額や手続は、会社の資産構成・株主構成などの個別事情によって異なります。

    よくある質問

    Q. 黒字のうちに廃業すれば、税金はかかりませんか?

    かかります。清算中の資産の売却益には会社に法人税等がかかり、株主が残余財産の分配を受けると、資本金等の額を超える部分はみなし配当として課税されます。黒字であるほど残余財産が大きくなり、株主段階の税負担も大きくなりやすい点に注意が必要です。

    Q. 小さな会社でも、M&Aで引き継いでもらえることはありますか?

    会社の規模が小さくても、取引先、技術、許認可、店舗などに価値があれば、同業者などが引き継ぎを検討することがあります。会社全体の譲渡が難しくても、事業の一部だけを引き継いでもらう方法もあります。公的な相談窓口として事業承継・引継ぎ支援センターがあります。

    Q. 廃業と決めたら、まず誰に伝えるべきですか?

    一般には、家族と主要な関係者で方針を固めたうえで、金融機関や顧問の専門家と手順を確認し、従業員、取引先の順に伝えることが多いといえます。伝える時期を誤ると、従業員の離職や取引の打切りが先行するおそれがあるため、順番を事前に設計しておくことが大切です。

    Q. 会社が使っている土地や建物が社長個人のものの場合、どうなりますか?

    会社が廃業すると賃料収入がなくなり、不動産は個人の財産として残ります。売却、他者への賃貸、別の事業への活用、相続まで含めて、廃業と同時に行き先を検討しておくことが望まれます。

    Q. 廃業と比べるとき、何から調べればよいですか?

    まず、清算した場合の残余財産と税引後の手取りの見込みを把握することです。そのうえで、会社や事業の一部に引き継ぎ手がいるかを確認すると、比較の材料がそろいます。

    関連するAEGISのソリューション

    この記事のテーマに関連する、AEGISのソリューションです。

    • 事業承継:後継者・経営権・株式・資金・ご家族の意向を確認し、贈与・相続・売買・M&Aなどの方法を比較しながら承継計画を検討します。
    • M&A:会社売却の方針や取引条件、税引後の受取額、売却後の資産管理を検討します。

    参考資料・出典

    公的資料・一次情報

    書籍

    • 『これだけ!組織再編&事業承継税制(第3版)』佐藤信祐・長谷川太郎 著、中央経済社、P.155-166
    • 『専門家のための事業承継入門 事例で学ぶ!事業承継フレームワーク』事業承継支援研究会 編、ロギカ書房、P.2-29(第1章)
  • 会社売却と役員退職金の組み合わせ|株式の対価と退職金の配分を、オーナー・会社・買い手の三方から考える

    会社売却と役員退職金の組み合わせ|株式の対価と退職金の配分を、オーナー・会社・買い手の三方から考える

    会社を株式譲渡で売却するとき、「売却代金の一部を役員退職金として受け取るとよい」と耳にすることがあります。結論から言えば、オーナーが株式の100%を持つ場合、退職金を払うと会社の価値がその分だけ下がるため、受け取る総額そのものはほとんど変わりません。変わるのは、個人の税金、会社の法人税、買い手の投資額という「受け取り方の結果」です。

    そして、この組み合わせが合理的に機能するのは、退職金が税務上適正な金額であること、会社に支払う資金があること、オーナーが実際に退任すること、他の株主との公平が保たれること、支払が確実であること、という条件がそろった場合に限られます。

    この記事では、株式の対価と退職金の配分を、オーナー個人・対象会社・買い手の三つの立場から整理します。親族内承継などで退職金をいつ・いくら支給するかという一般的な論点は、関連記事「役員退職金はいつ・いくら支給するか」で扱っています。

    なぜ「株式の対価」と「退職金」の組み合わせが論点になるのか

    株式譲渡では、売却代金は株主であるオーナー個人に支払われます。一方、役員退職金は、対象会社がオーナーに支払うものです。

    ここで押さえたいのは、退職金の支払いは会社の財産を減らすという点です。会社の手元資金から退職金が出ていけば、その分だけ会社の純資産は小さくなり、買い手が支払う株式の価格も下がるのが通常です。買い手から見れば「会社の価値」の中から退職金が先に払われ、残りを株式の対価として受け取る、という構図になります。

    つまり、組み合わせとは「パイを大きくする方法」ではなく、同じパイを、株式の対価と退職金という二つの受け取り口にどう分けるかの問題です。それでも検討される理由は、受け取り口によって課税の仕組みが異なり、会社側の税金にも影響するからです。

    立場株式の対価だけで受け取る場合一部を退職金として受け取る場合
    オーナー個人全額が株式の譲渡所得として課税退職所得と株式の譲渡所得に分かれて課税
    対象会社会社の資金・純資産は変わらない資金が流出するが、適正額なら損金になる
    買い手株式の取得額が大きくなる株式の取得額が小さくなる
    他の株主持株割合どおりに対価を受け取る退職金を受けない株主の取り分が減る

    オーナー個人の税金:退職所得と株式の譲渡所得

    株式の譲渡所得

    個人が非上場株式を譲渡した利益は、他の所得と分けて課税される申告分離課税の対象です。税率は所得税15%・住民税5%で、このほかに復興特別所得税がかかります(令和9年分以後は、復興特別所得税の一部が防衛特別所得税に置き換わりますが、合計の負担率は変わりません)。譲渡所得の金額は、譲渡価額から取得費や譲渡のための費用を差し引いて計算します(国税庁 タックスアンサーNo.1463)。株式の取得費が小さいオーナー企業では、売却代金の大部分が課税対象になりやすいのが特徴です。

    退職所得

    役員退職金は退職所得として、他の所得と分けて税額を計算します。退職所得の金額は「(収入金額-退職所得控除額)× 1/2」で、退職所得控除額は勤続20年以下なら1年につき40万円(最低80万円)、20年超なら800万円に20年を超える1年につき70万円を加えた額です(国税庁 タックスアンサーNo.1420)。

    税率は累進税率ですが、控除後の金額の2分の1だけが課税対象になるため、勤続年数が長く退職金が過大でない範囲では、受け取る金額に対する実質的な負担が株式の譲渡所得の税率を下回る部分が生じ得ます。反対に、退職金を大きくすると累進税率の高い部分が増え、株式で受け取るより負担が重くなる部分も出てきます。

    たとえば、勤続35年のオーナーが退職金1億円を受け取る場合(説明のための単純な例です)、退職所得控除額は800万円+70万円×15年=1,850万円、課税対象となる退職所得は(1億円-1,850万円)×1/2=4,075万円です。同じ1億円を株式の対価として受け取れば、取得費などを除いた額がそのまま20%の課税対象になります。どちらが有利かは、金額の配分と勤続年数によって変わるため、配分を変えながら税引後の手取りを試算することが出発点です。

    個人側で注意したい例外

    • 役員としての勤続年数が5年以下の場合:「特定役員退職手当等」として、2分の1の計算が適用されません(No.1420)。売却前に親族を役員に就けて退職金を払う、といった設計では特に注意が必要です。
    • 「退職所得の受給に関する申告書」を提出しない場合:支払額の20.42%が源泉徴収され、確定申告で精算することになります(No.1420)。

    対象会社の側:損金になるかが分かれ目

    役員退職金は、会社の側では原則として損金になります。ただし、不相当に高額な部分の金額は損金に算入されません(法人税法34条2項、国税庁 タックスアンサーNo.5211)。実務では、退任時の報酬月額・役員としての在任年数・功績倍率を掛け合わせる考え方や、同業で規模の近い会社の支給水準との比較で、金額の妥当性が検討されてきました。裁判例でも判断は分かれており、「この倍率なら必ず認められる」という基準はありません。

    M&Aの場面でこの点が重要になるのは、退職金が過大と判断された場合の負担が、売却後の会社と売り手の双方に及ぶからです。損金にならなかった部分について対象会社に追加の税金が生じれば、買い手は株式譲渡契約の表明保証や補償の条項に基づいて、売り手に補填を求める可能性があります。表明保証と補償の仕組みは、関連記事「表明保証と売主の責任」で扱います。

    また、損金になった退職金は、会社のその事業年度の所得を減らします。損金に算入する時期は、原則として株主総会の決議等で金額が具体的に確定した事業年度で、実際に支払った事業年度に損金経理をした場合はその年度とすることも認められています(法人税基本通達9-2-28)。

    買い手の側:投資額と「節税効果」の帰属

    買い手にとって、退職金との組み合わせには次のような意味があります。

    • 株式の取得額が小さくなる:会社に余剰資金がある場合、それを退職金に充てた分だけ株式の対価が下がり、買い手の資金負担が軽くなります。
    • 会社の資金繰りは確認が必要:退職金の支払い後も、会社が事業を続けるのに十分な資金を持っているかが問われます。資金が足りず借入れで退職金を払うような設計は、買い手の理解を得にくくなります。
    • 会社の法人税が減る効果は、誰のものか:退職金が損金になり、会社に課税所得があれば法人税の負担が軽くなります。株式の価格を「退職金の額だけ」下げるのか、「税負担の軽減分を考慮した額」で下げるのかは、交渉で決まります。オーナー側は、この効果が価格にどう反映されているかを確認しておきたいところです。

    買い手は、金額が過大でないか、退任の実態があるかを、買収前の調査の中で確認するのが通常です。根拠のある金額と手続きを示せることが、交渉を円滑にします。

    組み合わせが成り立つための5つの確認事項

    確認事項確認したいこと満たさない場合に起こり得ること
    1. 金額の適正さ在任年数・報酬・功績から説明できるか、規程はあるか過大部分が損金にならず、補償を求められる可能性
    2. 支払う資金支払い後も会社の資金繰りに無理がないか買い手の合意が得られない、会社の財務が不安定になる
    3. 退任の実態売却後も実質的に経営に関与し続けないか退職給与と認められない可能性
    4. 他の株主との公平退職金を受けない株主の理解が得られるか株主間の対立、取引の遅れ
    5. 支払の確実性クロージングと同時か、後払いならその保全策は後払い分が回収できないリスク

    他の株主がいる場合

    株主がオーナー1人であれば、退職金と株式の対価の配分は「受け取り方の違い」にすぎません。しかし、役員でない株主や、役員でも退職金を受け取らない株主がいる場合は事情が異なります。退職金の分だけ株式の価格が下がるため、退職金を受け取らない株主の手取りは減るからです。

    兄弟や親族が株主に分かれている会社では、株式の対価と各人の退職金を合計した「一人ひとりの手取り」を並べて示し、全員が納得できる配分になっているかを確認することが欠かせません。退職金の額を株主間の調整のために恣意的に動かすことはできない点にも注意が必要です。

    売却後も会社に残る場合

    役員退職金は、役員を退任することが前提です。売却後も一定期間、会長や取締役として残る場合、その時点で退職金を受け取ると、退職給与として認められるかが問題になります。

    法人税基本通達9-2-32では、分掌変更等で役員としての地位や職務の内容が激変し、実質的に退職したのと同様の事情がある場合に退職給与として扱えるとし、常勤から非常勤への変更、取締役から監査役への変更、報酬のおおむね50%以上の減少などを例示しています。ただし、代表権がある人や経営上主要な地位にある人は除かれており、形式だけ整えても実態が伴わなければ認められません。また、未払金として計上しただけの金額は、原則として退職給与に含まれないとされています。

    売却後の残り方と、その間の報酬・退職金の扱いは、関連記事「M&A後に売り手オーナーが担う役割と条件」で詳しく整理しています。

    支払の時期

    退職金は、株式の代金決済と同じタイミング(クロージング時)か、その直後に支払う形が一般的です。一方、オーナーが売却後もしばらく役員として残る場合には、退職時まで支給を先送りする設計も考えられます。

    しかし、後払いにすると、その間に会社や買い手の経営が悪化した場合に支払われないリスクが残ります。中小企業庁の「中小M&Aガイドライン(第3版)」でも、役員退職慰労金のクロージング後払いは、譲渡対価の分割払いなどと並んで、最終契約で留意すべき事項の一つとして取り上げられています。ガイドラインは、引継ぎのためにクロージング後も一定期間残る場合のインセンティブとして活用されることがある一方、その後の事業や買い手の状況によっては支払われない(不履行となる)リスクがあると指摘しています。後払いとする場合は、金額と支給時期を契約で明確にし、先送りの期間をできるだけ短くするなど、リスクを小さくする工夫が必要です。

    配分を決めるまでの進め方

    1. 退職金の上限の目安を把握する:役員退職慰労金規程の有無、在任年数、報酬の推移を確認し、説明できる金額の範囲を税理士とともに確かめます。
    2. 支払う資金を確認する:会社の現預金と、支払い後の資金繰りを確認します。保険の解約金を原資にする場合は、解約の時期も含めて検討します。
    3. 配分を変えて手取りを試算する:株式の対価と退職金の配分をいくつか置き、個人の税引後手取り、会社の税負担、他の株主の手取りを並べます。
    4. 買い手と条件をすり合わせる:価格の決め方(退職金をどう差し引くか)、支払時期、退任後の関与を交渉の早い段階で共有します。
    5. 契約と手続きに落とし込む:株主総会の決議、議事録、株式譲渡契約での定めを整えます。

    AEGISの視点

    役員退職金との組み合わせは、M&Aの手取りを増やす「技術」として語られることが多いテーマです。しかし実際には、個人の税額の差は配分次第で小さくなることも逆転することもあり、むしろ大きく効いてくるのは、会社の損金の可否、他の株主との関係、退任の実態、支払いの確実性といった、取引全体の設計に関わる要素です。

    AEGISは、退職金を「長年経営を担ってきたことへの対価を、株式の対価とは別の筋道で正しく受け取る仕組み」と考えています。在任期間と功績に見合った金額を、規程と手続きに基づいて支給するのであれば、オーナー・会社・買い手のいずれにとっても説明のつく形になります。反対に、手取りを増やすためだけに金額を膨らませれば、売却後の補償や家族・株主間の対立という形で、かえって手元に残るものを減らしかねません。

    また、退職金と株式の対価は、売却後の資金の使い道とも結び付いています。受け取る時期や形が変われば、納税の時期や、その後の資産設計も変わります。売却の準備全体の流れは、M&AのPillar記事「会社売却を考えるなら何年前から準備するか」で整理しています。

    株式の譲渡と事業の譲渡で、オーナーの受け取り方がどう変わるかは、関連記事「株式譲渡と事業譲渡の比較ポイント」もあわせてご覧ください。

    M&Aや承継に伴う税務の論点については、アイジス税理士法人の専門領域でもAEGISの考え方を紹介しています。

    まとめ

    • 役員退職金を支払うと会社の価値が下がり、株式の価格もその分下がるのが通常です。オーナーが100%株主なら、受け取る総額はほとんど変わりません。
    • 違いが生じるのは、個人の税金(退職所得と株式の譲渡所得)、会社の法人税(退職金の損金算入)、買い手の投資額です。
    • 退職金の不相当に高額な部分は損金になりません。過大と判断されれば、売却後に補償を求められる可能性があります。
    • 他の株主がいる場合、退職金を受け取らない株主の手取りが減るため、全員の手取りを並べた確認が欠かせません。
    • 売却後も残る場合の退任の実態、後払いとする場合の支払の確実性にも注意が必要です。具体的な判断は個別事情によって異なります。

    よくある質問

    Q. 退職金と組み合わせれば、必ず手取りは増えますか?

    必ず増えるとは限りません。退職所得は2分の1課税の仕組みがある一方で累進税率が適用されるため、退職金の額が大きくなると、株式の譲渡所得として受け取るより負担が重くなる部分も生じます。勤続年数や配分によって結果が変わるため、配分をいくつか置いて税引後の手取りを試算することが大切です。

    Q. 退職金の額は、買い手と自由に決めてよいのですか?

    株式の対価との配分は交渉で決まりますが、退職金の額そのものは、税務上不相当に高額でないことが前提です。在任年数、報酬、功績、同業他社の水準などから説明できる範囲に収める必要があります。役員退職慰労金規程があれば、その基準に沿って算定するのが基本です。

    Q. 会社に退職金を払うだけの資金がない場合はどうなりますか?

    支払い後に会社の資金繰りが成り立たない場合、退職金との組み合わせは現実的ではありません。買い手が資金を提供する方法も考えられますが、買い手の合意が前提となり、条件も複雑になります。まずは会社の手元資金の範囲で、無理のない金額を検討するのが基本です。

    Q. 売却後に顧問として残る予定です。退職金は受け取れますか?

    取締役を退任し、顧問として関与の度合いが大きく下がるのであれば、退職金を受け取ることは一般的です。ただし、肩書が変わっても重要な経営判断に関わり続けるなど、実質的に退任していないと見られる状況では、退職給与として認められない可能性があります。残る期間の役割と報酬を、売却の契約段階で明確にしておくことが重要です。

    Q. 株主が複数いる場合、退職金を受け取るのは社長だけでもよいのですか?

    退職金は役員として退任する人に支給されるものなので、役員でない株主には支給されません。その結果、退職金の分だけ株式の価格が下がると、他の株主の取り分が減ります。株主全員の手取りを並べ、事前に説明と合意を得ておくことが、取引を円滑に進めるうえで欠かせません。

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    参考資料・出典

    公的資料・一次情報

    書籍

    • 『中小企業M&AのFA業務マニュアル』渡部潔 著、中央経済社、2025年、第8章(印刷 p.123-143)
    • 『新版 サクサクわかる!M&Aの税務』佐藤信祐 著、清文社、2024年、第2章第1節(印刷 p.118-120)
  • M&Aの前に整えたい会計・契約・組織|買い手の調査に「説明できる会社」にするための準備

    M&Aの前に整えたい会計・契約・組織|買い手の調査に「説明できる会社」にするための準備

    M&A(会社売却)の交渉が進むと、買い手は会社の中身を詳しく調べます。これをデュー・ディリジェンス(以下DD)といいます。DDでは、決算書や税務申告書だけでなく、株主名簿、取引先との契約書、就業規則、議事録など、多くの資料の提出と質問への回答が短期間に求められます。

    結論から言えば、M&Aの前に整えるべきことは、会社の実態を、資料と言葉で「説明できる状態」にしておくことです。問題がまったくない会社はありません。大切なのは、問題を事前に把握し、買い手に説明できるよう準備しておくことです。この記事では、買い手から確認される事項を「会計」「契約」「組織」の3つに分け、売り手として何を整えておけばよいかを解説します。

    買い手は何を確認するのか

    DDの目的

    買い手にとってDDは、買収してよいか、どのような条件なら買収できるかを判断するための調査です。中小企業庁の「中小M&Aガイドライン(第3版)」(令和6年8月改訂)でも、DDは譲り受け側が対象企業のリスクを精査するために行うものとされ、財務、法務のほか、ビジネス、税務、人事労務などの分野が挙げられています。

    DDで見つかった事項は、次のような形で条件に反映されます。

    • 価格の引下げ
    • 取引の方法(株式譲渡か事業譲渡かなど)の変更
    • クロージングまでに解消すべき条件の追加
    • 最終契約での表明保証や補償の追加
    • 取引そのものの見送り

    つまり、DDで初めて見つかった問題は、売り手にとって交渉上の不利につながりやすいのです。

    売り手が準備すべき理由

    DDは、一般に数週間から数か月程度の短い期間に集中して行われます。日常業務を続けながら、限られた人員で膨大な資料要求に対応するのは、想像以上に負担の大きい作業です。

    そのため、売り手側でも事前に自社を点検し、強みとリスクを把握しておくことが有効です。これは売り手側が行う自己点検という意味で、セラーズDD(売り手DD)と呼ばれることもあります。中小M&Aガイドラインでも、譲り渡し側の事前の取組みとして、株式や事業用資産の整理・集約といった「見える化」「磨き上げ」が挙げられています。

    会計:数字の「実態」を説明できるか

    買い手は決算書の数字をそのまま信用するのではなく、資産・負債の実際の価値と、会社の本来の収益力を確かめようとします。

    貸借対照表:資産と負債の実態

    • 売掛金:長期間回収されていないもの、取引先の経営状況から回収が見込みにくいものがないか
    • 在庫:長く動いていない在庫、陳腐化した在庫が帳簿価額のまま残っていないか
    • 不動産:帳簿価額と時価の乖離、事業に使っていない土地・建物の有無
    • 退職金:従業員の退職給付や役員退職慰労金について、必要な引当てや規程があるか
    • 簿外の負債:未払いの残業代、保証債務、係争中の案件など、帳簿に載っていない負担がないか

    これらを時価や回収可能性で見直した貸借対照表は「実態貸借対照表」と呼ばれ、価格の議論の土台になります。売り手側で先に把握しておけば、買い手の指摘に慌てることがなくなります。

    損益計算書:本来の収益力

    買い手は、一時的な損益や、オーナー経営に特有の費用を除いた「正常な収益力」を見ようとします。

    • 単発の大口取引や、災害・補助金などの一時的な要因
    • オーナー個人に関係する費用(車両、保険、交際費など)が含まれていないか
    • 役員報酬の水準が、売却後の経営体制と比べて妥当か
    • 関係会社やオーナー一族との取引条件が、通常の取引と比べて妥当か

    オーナー関連の費用を整理しておくと、本来の収益力が見えやすくなり、価格の議論も建設的になります。

    税務:過去の申告を説明できるか

    株式譲渡の場合、会社の過去の税務上の問題は、売却後もそのまま会社に残ります。そのため買い手は、過去数期分の税務申告の内容や、税務調査の履歴を確認します。

    • 過去の税務調査で指摘を受けた事項と、その後の対応
    • 役員給与、オーナー一族との取引、会社資産の私的利用など、税務上の論点になりやすい事項
    • 繰越欠損金の有無と発生の経緯
    • 消費税、源泉所得税など、法人税以外の税目の処理

    事業計画:将来を説明できるか

    買い手が最終的に判断するのは、「この投資を回収できるか」です。過去の決算書しかないと、買い手は将来を過去の延長、あるいはそれ以下として見積もりがちです。今後3〜5年程度の事業計画を、前提とともに示せるようにしておくと、将来についての建設的な議論がしやすくなります。

    契約:引き継がれる約束事を把握しているか

    株式:取引の「対象そのもの」

    株式譲渡では、株式そのものが取引の対象です。株式の権利関係に疑問があると、取引自体が成り立たなくなることもあります。

    • 株主名簿:作成・更新されているか、実際の株主と一致しているか
    • 株主の変遷:設立から現在までの相続・売買・贈与などを、書類で裏付けられるか
    • 名義株:名義上の株主と実際の出資者が異なる株式がないか
    • 株券:株券を発行する会社か、発行している場合に株券がどこにあるか(株券発行会社では、株式の譲渡は株券を交付しなければ効力を生じません〔会社法128条1項〕)
    • 税務申告書との整合:法人税申告書に記載された株主の情報と、株主名簿や実態が一致しているか

    亡くなった株主の名義のままになっている、相続人の間で株式の帰属が決まっていない、といった問題は、売却の検討をきっかけに表面化することが少なくありません。親族間の話し合いが必要になる場合もあるため、早めの確認が重要です。

    取引先との契約

    • チェンジ・オブ・コントロール条項:株主の変更や経営権の移動があった場合に、相手方への通知・承諾が必要になる、あるいは契約を解除できるとする定めがないか
    • 契約期間・更新・解除の条件:主要な契約がいつまで続くのか
    • 競業避止・独占条項:M&A後の事業展開を制約する定めがないか
    • 口頭だけの取引:契約書がないまま継続している重要な取引がないか

    チェンジ・オブ・コントロール条項は、買い手のDDで初めて指摘されると対応が後手に回ります。主要な契約については、売り手側で事前に条項を確認しておきたいところです。

    不動産・借入れ・許認可

    • 不動産:会社が使う土地・建物は、会社所有か、オーナー個人所有か、第三者からの賃借か。オーナー個人との間に賃貸借契約書があるか
    • 借入れ:金融機関との契約に、財務内容に関する制限条項(コベナンツ)や、株主変更に関する定めがないか。経営者保証の有無
    • 許認可:事業に必要な許認可が、株主や代表者の変更後も維持できるか
    • 知的財産:商標や特許が会社名義で登録されているか

    組織:会社の運営ルールが機能しているか

    意思決定の記録

    取締役会や株主総会の議事録が作成・保管されているかは、法務DDで必ず確認される事項です。重要な取引(オーナーとの不動産売買や貸借など)について、必要な機関決定とその記録があるかも見られます。意思決定の記録は、税務上の説明資料としても重要です。

    労務管理

    近年、労務に関する事項は、DDで特に重視される分野の一つになっています。

    • 労働時間を客観的に把握しているか
    • 残業代を適正に計算・支払っているか(端数の切捨てや固定残業代の運用など)
    • 就業規則や各種規程が実態と合っているか
    • 社会保険・労働保険の手続きが適正か
    • 有給休暇の取得状況

    中小企業では許容されてきた運用が、買い手の基準では問題になる場合があります。未払いの残業代などは、簿外の負債として価格に影響することもあります。

    人材と組織体制

    • 社長以外のキーパーソンは誰か、売却後も残る見込みがあるか
    • 組織図と権限の分担が明確か
    • 経理を担う人材がいるか、DDの際に協力を得られるか

    関係会社

    本業との関係が薄い関連会社や、オーナー一族が持つ会社との取引がある場合、それらを売却の対象に含めるのか、事前に整理するのかを決めておく必要があります。

    準備の進め方:一覧化から始める

    ここまでの内容を、売り手側の準備チェック表としてまとめると次のようになります。

    領域準備しておきたい資料よく論点になる事項
    会計決算書・勘定科目内訳・試算表(過去数期分)、固定資産台帳、在庫の明細回収困難な売掛金、滞留在庫、不動産の含み損益、退職金の引当て
    税務法人税・消費税等の申告書(過去数期分)、税務調査の記録役員給与、オーナー関連取引、繰越欠損金
    株式株主名簿、定款、株券の発行状況、株式の異動に関する書類名義株、相続未了の株式、所在不明の株主
    契約主要取引先との契約書、不動産の賃貸借契約、借入契約、リース契約チェンジ・オブ・コントロール条項、オーナー個人との賃貸借、経営者保証
    組織議事録、就業規則・各種規程、組織図、労働時間の記録未払残業代、規程と運用の乖離、キーパーソンの離職
    将来事業計画(3〜5年程度)、事業の強みを説明する資料計画の前提の妥当性、社長依存の度合い

    ※上記は一般的な例です。業種や会社の状況によって、確認される資料や論点は異なります。

    準備は、次の順で進めると効率的です。

    1. 一覧化:上の表を手掛かりに、自社にある資料とない資料を洗い出す
    2. 優先順位付け:取引の成否に関わるもの(株式の権利関係など)から着手する
    3. 説明の準備:すぐに解消できない問題は、経緯と対応方針を説明できるようにしておく
    4. 更新の仕組み化:決算ごとに資料を更新し、いつでも出せる状態を保つ

    実務上注意したいポイント

    直前の「取り繕い」は逆効果になり得る

    売却の直前に経費を絞って利益を大きく見せる、問題を伏せて交渉を進める、といった対応は、DDや売却後の調査で判明した場合、信頼を損ない、交渉の打ち切りや損害賠償の問題につながるおそれがあります。最終契約では、売り手が会社の状況について一定の事項が真実であることを表明し、違反があった場合に補償する「表明保証」の条項が設けられるのが一般的です。分かっている問題は、早めに把握し、開示の仕方を含めて準備しておくことが望まれます。

    秘密の管理と協力者の確保

    DDの対応には、経理や総務の担当者の協力が欠かせません。一方で、売却の検討が広く知られると、従業員や取引先の不安を招くことがあります。誰に、いつ、どこまで伝えるかを、あらかじめ考えておきましょう。

    取引の方法によって確認される範囲が変わる

    株式譲渡では会社の権利義務がそのまま引き継がれるため、買い手は会社全体を調査します。事業譲渡では、引き継ぐ資産・負債や契約を個別に選ぶため、確認の焦点が変わります。方法の違いについては、関連記事「株式譲渡と事業譲渡の比較ポイント」で解説しています。

    AEGISの視点

    M&Aの準備として会計・契約・組織を整える作業は、言い換えれば、会社の「ガバナンスの棚卸し」です。株主名簿を整え、会社と個人の取引を契約書で明確にし、意思決定を記録に残す。これらは、売却のためだけでなく、親族や社内への承継、金融機関との関係、そして相続のときにも、同じように求められるものです。

    とくにオーナー経営の会社では、会社と個人、会社と関係会社の間に、長年の経緯で生まれた取引や資産の関係が積み重なっています。それらを一つずつ説明できる形にしていくと、どの資産を会社に残し、どの資産を個人や資産管理会社で持つべきかという、オーナー家全体の所有設計の論点が見えてきます。AEGISは、M&Aの準備を、事業と資産と承継を同時に見直す機会として捉えることを大切にしています。

    会社売却の準備をいつから、どのような順で進めるかの全体像は、関連記事「会社売却を考えるなら何年前から準備するか」で解説しています。また、買い手の立場から見た確認事項は「会社を買う前に確認したいリスク」で整理しています。

    まとめ

    • M&Aでは、買い手が財務・税務・法務・労務などをDDで調査し、その結果が価格や条件に反映されます。
    • 売り手として整えるべきことは、会社の実態を資料と言葉で説明できる状態にしておくことです。
    • 会計では実態の資産・負債と本来の収益力、契約では株式の権利関係と主要な契約条項、組織では意思決定の記録と労務管理が主な論点です。
    • 準備は、一覧化・優先順位付け・説明の準備・更新の仕組み化の順で進めると効率的です。
    • 問題を隠すのではなく、事前に把握して説明できるようにしておくことが、交渉を円滑にします。

    どの事項が自社にとって重要かは、業種や会社の状況などの個別事情によって異なります。

    よくある質問

    Q. DDではどのくらいの資料を求められますか?

    案件や買い手によって異なりますが、決算書・税務申告書・勘定科目の明細、株主名簿や定款、主要な契約書、議事録、就業規則など、会社の財務・法務・労務の全般にわたる資料が求められるのが一般的です。資料ごとに優先順位と提出期限を買い手と確認しながら進めると、対応しやすくなります。

    Q. 名義株があると、M&Aはできないのですか?

    直ちにできなくなるわけではありませんが、誰が真の株主かを明確にしないまま株式を譲渡すると、後に権利をめぐる争いが生じるおそれがあります。そのため、買い手は名義株の整理を求めるのが通常です。経緯の確認や関係者との合意、税務上の取扱いの検討が必要になるため、早めに着手することが望まれます。

    Q. 売り手が自分で事前調査(セラーズDD)をする必要はありますか?

    必須ではありませんが、自社の問題点を先に把握できれば、解消できるものは事前に解消し、解消できないものは説明の準備ができます。買い手のDDで初めて問題を指摘されて価格を引き下げられる事態を避けるためにも、主要な論点だけでも事前に点検しておく価値はあります。

    Q. チェンジ・オブ・コントロール条項がある契約は、M&Aの障害になりますか?

    条項の内容によって影響は異なります。事後の通知で足りるものから、事前の承諾が必要なもの、契約解除の理由になり得るものまでさまざまです。重要な取引先との契約にこうした条項がある場合は、その内容と、相手方への伝え方・タイミングを事前に検討しておく必要があります。

    Q. 労務の問題が見つかった場合、どうなりますか?

    未払いの残業代などが見つかった場合、金額を見積もって価格に反映したり、クロージングまでの是正を条件としたり、表明保証の対象にしたりといった対応がとられるのが一般的です。事前に労働時間の管理や賃金計算の方法を点検し、必要に応じて是正しておくことが望まれます。

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