「いずれは会社を売ることになるかもしれない」——後継者が見つからない、子どもに継ぐ意思がない、あるいは事業をさらに伸ばせる相手に託したい。理由はさまざまですが、こうした考えが頭をよぎった時点で、実は準備はもう始められます。
結論から言えば、会社売却(M&A)の準備は、相手探しを始める数年前から、段階的に進めるのが現実的です。M&Aの手続きそのものは一定の期間で進みますが、買い手から確認される事項の多くは、短期間では整えられないものだからです。この記事では、売却を「するかどうか」が決まっていない段階から、何を、どの順番で整えておけばよいかを解説します。
会社売却の準備とは何をすることか
会社売却の準備というと、「会社の価値を高めること(いわゆる磨き上げ)」を思い浮かべる方が多いかもしれません。もちろんそれも重要ですが、準備の中心はもう一つあります。それは、会社を第三者に引き渡せる状態にしておくことです。
中小企業庁の「中小M&Aガイドライン(第3版)」(令和6年8月改訂)でも、譲り渡し側が事前に取り組む事項として、株式の整理・集約や、事業用資産等の整理・集約(経営者個人の資産と会社の資産の区分など)が挙げられています。つまり、価値を上げる取組みと同じくらい、「誰が会社を持っているのか」「何が会社のもので、何が個人のものか」をはっきりさせることが求められているのです。
AEGISでは、会社売却の準備を次の2つに分けて考えることをおすすめしています。
| 準備の種類 | 目的 | 主な内容 |
|---|---|---|
| 渡せる状態にする準備 | 取引そのものを成立させる | 株式の整理、会社と個人の資産・取引の区分、契約関係の確認 |
| 評価される状態にする準備 | 条件(価格・付随条件)を納得できるものにする | 社長依存の解消、数字の信頼性、事業の強みの見える化 |
前者が欠けていると、条件がどれだけ良くても取引が進みません。後者が欠けていると、取引は成立しても、価格や条件の面で譲歩を重ねることになりがちです。
なぜ「数年前」からの準備が必要なのか
M&Aの手続き自体は短期集中で進む
M&Aは一般に、相手先の選定、初期的な交渉、基本合意、買い手による調査(デュー・ディリジェンス、以下DD)、最終契約、クロージング(株式や事業の引渡しと対価の支払い)という流れで進みます。中小M&Aガイドラインでも、意思決定から仲介者・FAの選定、バリュエーション、マッチング、交渉、基本合意、DD、最終契約、クロージング、そしてクロージング後(ポストM&A)までの流れが示されています。
このうちDDは、数週間から数か月程度の短い期間に、大量の資料提出や質問への回答が集中するのが一般的です。その段階で初めて株主名簿の不備や契約書の欠落に気付いても、整える時間はほとんどありません。
整えるのに時間がかかるものがある
一方で、買い手が確認する事項の中には、整えるのに年単位の時間を要するものがあります。
- 社長への依存:営業、技術、取引先との関係、社内の意思決定が社長に集中している場合、それを幹部社員に移していくには時間がかかります。
- 株式の分散:親族や元役員、取引先などに株式が分散している場合、譲渡の同意を得たり、買い集めたりするには、相手との関係づくりも含めて時間が必要です。
- 会社と個人の境界:オーナー個人が所有する土地の上に会社の建物がある、会社とオーナーの間に貸付金や借入金がある、といった関係を整理するには、税務上の検討を含めて段階的に進める必要があります。
- 数字の信頼性:過去数期分の決算や税務申告は、売却直前に作り直すことはできません。日々の経理の積み重ねがそのまま評価の材料になります。
時間の余裕は交渉力そのもの
もう一つの理由は、時間の制約がある売り手は交渉で不利になりやすいことです。経営者の健康問題や借入金の返済期限など、「急いで売らなければならない事情」があると、条件面で譲らざるを得ない場面が増えます。準備に時間をかけることは、相手を選び、条件を比べる余地を確保することでもあります。
中小企業庁の「事業承継ガイドライン(第3版)」は、事業承継全般について、経営者がおおむね60歳頃には準備に着手することが望ましいとしています。第三者への売却も事業承継の一つの形であり、この考え方はM&Aにもそのまま当てはまります。
売却の数年前から整えたい5つのこと
AEGISでは、会社売却の準備を次の5つの領域で整理しています。いずれも、売却するかどうかが決まっていなくても、会社の経営や承継にとってプラスになるものです。
1. 社長依存:社長がいなくても会社は回るか
売却後、売り手の社長は一定の引継期間を経て会社を離れるのが一般的です。買い手が最も気にするのは、社長が抜けた後も売上や組織が維持できるかどうかです。
- 主要な取引先との窓口は、社長以外にもいるか
- 見積りや価格決定、採用などの権限は、どこまで幹部に委ねられているか
- 技術や製品開発の中心が社長一人に集中していないか
- いわゆる「右腕」となる人材がいるか、その人は売却後も残りそうか
社長が年に一度しか対応しない業務まで含めると、引継ぎには相応の期間が必要です。権限の移譲は、売却の話が具体化する前から少しずつ進めておくのが理想です。
2. 株式:誰が、何株、どのような経緯で持っているか
株式譲渡によるM&Aでは、原則として発行済株式のすべてを買い手に渡すことが前提になります。そのため、次の点を早めに確認しておく必要があります。
- 株主名簿が作成・更新されているか、実際の株主と一致しているか
- 設立以来の株主の変遷(相続、売買、贈与など)を書類で説明できるか
- いわゆる名義株(名義上の株主と実際の出資者が異なる株式)がないか
- 連絡の取れない株主や、売却に反対しそうな株主がいないか
- 株券を発行する会社かどうか、発行している場合に株券の所在は明らかか
相続で取得した株式の帰属が親族間で確定していない、といった問題が売却の検討をきっかけに表面化することもあります。株式の整理は、相続対策や事業承継の観点からも早く着手したい項目です。
3. 会社と個人の資産:境界線を引けているか
中小企業では、会社とオーナー個人の資産や取引が混在していることが珍しくありません。売却の際には、何を会社とともに渡し、何を個人の手元に残すのかを明確にする必要があります。
- 会社が使う土地・建物をオーナー個人が所有していないか(その場合、売却後に売るのか、貸し続けるのか)
- 会社名義の車両、保険、社宅などに、私的な利用が含まれていないか
- オーナーと会社の間の貸付金・借入金に、契約書や返済条件があるか
- 本業との関係が薄い関連会社や資産が、会社の中に含まれていないか
とくに不動産は、オーナーの相続対策や引退後の生活設計とも深く関わります。「売却後も賃料収入として持ち続けたい」のか、「この機会に現金化したい」のかによって、準備の方向が大きく変わります。
4. 数字:会社の実態を説明できるか
買い手は、決算書の数字をそのまま受け取るのではなく、資産の実際の価値や、一時的な要因を除いた本来の収益力を確かめようとします。
- 回収の見込みが低い売掛金や、長く動いていない在庫がないか
- 役員や従業員の退職金について、必要な引当てや規程が整っているか
- 社長個人の経費や、関係者との取引が損益に含まれていないか
- 税務申告に過去の指摘事項や、未処理の論点が残っていないか
- 将来3〜5年程度の事業計画を、根拠とともに示せるか
数字の信頼性は、価格だけでなく、買い手が安心して交渉を続けられるかどうかにも影響します。
5. 契約と組織:引き継がれる約束事は整っているか
会社が結んでいる契約や、組織の運営ルールも確認の対象になります。
- 主要な取引先との契約に、株主が変わった場合の通知・承諾・解除などの定め(チェンジ・オブ・コントロール条項)がないか
- 事業に必要な許認可が、売却後も維持できるか
- 就業規則や労働時間の管理、残業代の支払いなどが法令に沿って運用されているか
- 取締役会・株主総会の議事録など、会社の意思決定の記録が残っているか
会計・契約・組織の準備については、関連記事「M&Aの前に整えたい会計・契約・組織」で詳しく解説しています。
準備のタイムライン:逆算で考える
5つの領域を、売却の時期から逆算して並べると、次のようなイメージになります。
| 時期の目安 | 主な取組み |
|---|---|
| 売却を意識し始めた段階(数年前) | 方針の整理(売却も選択肢に入れるか)、株式と会社・個人の資産の現状把握、社長依存の洗い出し |
| 準備期(売却の1〜3年前) | 権限移譲と幹部の育成、株式の整理・集約、会社と個人の資産・取引の整理、経理と契約書類の整備、事業計画の作成 |
| 実行期(相手探し〜クロージング) | 相手先の選定、基本合意、DDへの対応、最終契約、引継ぎ |
| 売却後 | 引継期間の対応、受け取った資金や手元に残した不動産の管理、相続・資産承継の再設計 |
※上記は考え方を示すための例です。実際に必要な期間は、会社の規模や業種、株主構成、オーナーの状況によって大きく異なります。
ここで大切なのは、「売却後」までを計画に含めることです。売却で得た資金や、個人に残した不動産をどう管理し、次の世代にどう引き継ぐかによって、売却の方法やタイミングの最適解が変わることがあるからです。
実務上注意したいポイント
方法によって、オーナーの手取りと買い手の負担が変わる
会社売却には、株式を譲渡する方法と、事業を譲渡する方法などがあります。株式譲渡では対価はオーナー(株主)個人が受け取り、事業譲渡では会社が受け取ります。どちらを選ぶかで、税金のかかり方や、引き継がれる権利義務の範囲が変わります。
たとえば、個人が非上場株式を譲渡して得た利益は、他の所得と分けて課税される申告分離課税の対象で、税率は所得税15%・住民税5%です(国税庁 タックスアンサーNo.1463。平成25年から令和29年までの各年分は、別途、基準所得税額の2.1%の復興特別所得税がかかります。令和9年分以後は、復興特別所得税が1.1%に引き下げられ、新たに防衛特別所得税〔同1%〕が併せて課されますが、合計の負担率は変わりません〔国税庁 No.1522〕)。ただし、どの方法が適しているかは、税金だけでなく、買い手の意向や引き継ぐリスクの範囲、オーナーが会社に残したい資産によって変わります。詳しくは関連記事「株式譲渡と事業譲渡の比較ポイント」をご覧ください。
支援者の立場を確認する
M&Aの支援者には、売り手と買い手の双方と契約する「仲介者」と、どちらか一方とだけ契約する「ファイナンシャル・アドバイザー(FA)」があります。中小M&Aガイドラインでも、両者の違いと、仲介者に生じ得る利益相反について整理されています。どちらが良い・悪いではなく、誰の立場で助言しているのかを理解したうえで相談することが大切です。
秘密の管理と、社内の協力者
売却の検討は、早い段階で社内外に知られると、従業員や取引先の不安を招くことがあります。一方で、DDの段階では経理担当者などの協力が欠かせません。誰に、いつ、どこまで伝えるかも、準備の一部として考えておきたいポイントです。
経営者保証の扱い
会社の借入れにオーナーが個人保証をしている場合、売却後にその保証をどう外すかは重要な論点です。中小M&Aガイドラインでも、経営者保証の取扱いについて留意点が示されています。借入れと保証の状況は、早い段階で一覧にしておきましょう。
AEGISの視点
会社売却は、オーナーにとって「会社を手放す」決断であると同時に、「会社の外に移った資産を、どう持ち、どう次へつなぐか」を設計し直す出発点でもあります。
売却の準備を進めると、会社の中に、事業に直接使われていない不動産や金融資産、関連会社の株式などが含まれていることに気付くことがあります。これらを売却の対象に含めるのか、事前に個人や資産管理会社へ移すのかによって、売却の方法や税負担、そして売却後の家族の資産構造が大きく変わります。会社の価値を高めることと、オーナー家の資産全体を整えることは、別々の作業ではありません。
AEGISは、事業・資産・不動産・税務・所有・承継を一つの全体像として捉え、会社売却をその中に位置付けて考えることを重視しています。売却するかどうかを決める前に、「もし売るとしたら、何を渡し、何を残したいか」を書き出してみること。それが、遠回りに見えて最も確実な準備の第一歩です。
なお、承継の方法そのものに迷っている場合は、関連記事「事業承継は何から始めるべきか」や「親族内承継・従業員承継・M&Aの比較」も参考になります。
売却に伴う税務や、売却後の資産構造に関する論点については、アイジス税理士法人の専門領域でもAEGISの考え方を紹介しています。
まとめ
- 会社売却の準備には、「渡せる状態にする準備」と「評価される状態にする準備」の2つがあります。
- M&Aの手続きは短期集中で進む一方、社長依存・株式・会社と個人の資産・数字・契約の整理には年単位の時間がかかることがあります。
- 売却の時期から逆算し、数年前から段階的に準備を進めるのが現実的です。
- 売却の方法によって、オーナーの手取りや引き継がれるリスクの範囲が変わります。
- 売却後の資金や不動産の持ち方まで含めて計画することが、納得のいく売却につながります。
具体的に何を、どの順で整えるべきかは、会社の状況やオーナーの意向などの個別事情によって異なります。
よくある質問
Q. 売却するかどうか決めていなくても、準備を始める意味はありますか?
あります。社長依存の解消、株式の整理、会社と個人の資産の区分、経理や契約書類の整備は、売却だけでなく、親族や社内への承継、さらには日々の経営にとっても役立つ取組みです。売却を選ばなかった場合にも無駄になりにくい準備から始めるのが現実的です。
Q. 会社売却の手続きには、どのくらいの期間がかかりますか?
相手先の探索から基本合意、DD、最終契約、クロージングまでの期間は、案件によって大きく異なります。ただ、手続きが始まってから整えられることは限られるため、手続きの期間とは別に、事前の準備期間を確保しておくことが重要です。
Q. 業績が良いうちに売るべきでしょうか?
一般に、買い手は将来の収益力や事業の継続性を重視するため、業績が安定している時期のほうが選択肢は広がりやすいと考えられます。ただし、売却の時期は業績だけでなく、オーナーの年齢や健康、家族の意向、後継候補の有無などを総合して判断するものです。
Q. 会社が使っている土地を個人で持っています。売却前に何をすべきですか?
まず、売却後もその土地を持ち続けて会社に貸すのか、買い手や会社に売却するのかという方針を考えることが出発点です。現在の賃貸借の契約内容や賃料の水準、借地権の扱いなども確認が必要になります。この判断はオーナーの相続対策や引退後の収入とも関係するため、売却の条件と切り離さずに検討することが望まれます。
Q. 仲介者とFAは、どちらに相談すべきですか?
中小M&Aガイドラインでは、仲介者は売り手・買い手の双方と、FAはどちらか一方と契約して支援する者と整理されています。それぞれに特徴があるため、どちらを選ぶかよりも、支援者がどの立場で、どのような報酬体系で関与するのかを確認し、納得したうえで相談することが大切です。
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参考資料・出典
公的資料・一次情報
- 中小企業庁「中小M&Aガイドライン(第3版)―第三者への円滑な事業引継ぎに向けて―」(令和6年8月)
https://www.chusho.meti.go.jp/zaimu/shoukei/download/m_and_a_guideline.pdf
確認日:2026-10-09 - 中小企業庁「事業承継ガイドライン(第3版)」(令和4年3月改訂)
https://www.chusho.meti.go.jp/zaimu/shoukei/download/shoukei_guideline.pdf
確認日:2026-10-07 - 国税庁 タックスアンサー No.1463「株式等を譲渡したときの課税(申告分離課税)」
https://www.nta.go.jp/taxes/shiraberu/taxanswer/shotoku/1463.htm
確認日:2026-10-07 - 国税庁 タックスアンサー No.1522「先物取引に係る雑所得等の課税の特例」(令和9年分以後の復興特別所得税・防衛特別所得税の税率の記載)
https://www.nta.go.jp/taxes/shiraberu/taxanswer/shotoku/1522.htm
確認日:2026-10-09









